津南町の歴史ロマン-2
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見倉は秋山郷の中では一番昔の
面影が残っている所。
滅びの美学と秋山(秋山賛歌) 昭和59年12月15日十日町新聞

平安の貴族三千人が滅びた渓谷として、秋山の歴史は 一挙に描き変えられなければならないことになったが、ここにもう一つ書き加えたいことは、秋山に 滅びた貴族が、きわめて優れた滅びの美学をしっかり所有していたということである。彼らがあのよう に悲惨な滅びにさらされながら、一人として強盗匪賊の類とならず、また号泣哀哭の醜態をさらさず 温和従順に滅びていったのは、ひとえに彼らのなかに、世界でも比類の少ない西行美学を持っていたから であった。いわば彼らは優れた日本美学の使徒であったのだ。いまそのことを記して、秋山の歴史の 新しい夜明けの前に贈りたいと思う。

平安朝の終わり中世の始め頃、この国には恐ろしい死の思想の襲来があった。無常思想が中核となり それに世紀末思想が加わって形成されたもので、生あるものは必ず死ぬ、一寸一刻の猶予も許されない という恐怖に満ちたものであり、この国の人々は戦慄に戦慄を重ね、宗教も芸術もその防衛に大童に なった。宗教の方では法然の浄土宗が現れて、念仏さえ唱えれば極楽往生が出来るとして死の恐怖を やわらげ、また道元の禅宗が現れて、死と生は結局同一のものであるとして、万有一元の思想から死 の恐怖を和らげようとした。

これに対し文学芸術の方では藤原定家の幽玄妖艶の美学が現れて死の恐怖を和らげようとした。 西行は無情の思想を素直に受け取り、無常を永遠の真理と考え、枯れた草、破壊された城、滅びた国 、そうゆうもののなかに深い真実を見出し、無常を恐れるよりは、逆にそれを美しい美としたので ある。この西行の美学は利休の茶を生み、芭蕉の俳諧を生み、晩翠の「荒城の月」を生み、シルクロード の大荒廃美を生み、とどまることを知らざる大きな美となって現在も流れている。

国道沿いにある今井城址の石碑。
この定家のさんらん美と西行の滅びの美とは中世の初めに創められたもので、中世のはじめ頃は、 もっとも生気に満ちていたが、赤沢高原に逃れてきた京都貴族は、ちょうど中世の始め頃に最も 大量に流れて来たのであるから、彼らはこの二つの美学を最も強度に持っていたわけである。 したがって彼らが赤沢高原から秋山渓谷へ転落したのは、燦爛たる幽玄美の絶頂から、滅びの美学を 抱いて滅びの谷へ転落したもので、日本の美学史の上において、たぐいの少ない例といわなければ ならない。

西行美学では、粗末な草庵を愛し、食も無いほどの貧しさを愛し、原始自然を愛し、夜の焚き火を愛し 、例えば良寛の如く、その焚き火にあたっていることをこよなく愛した。が考えてみると昔の秋山の 人々の生活は、そのような生活によく似ているではないか。彼らはそのような生活にむしろ、静けさ 、平和、真実を感じ、そのような生活のひだひだに、最高に近い美を感じていたのではないか。 秋山に西行美が埋まっていることを信じる私はそのように感じないではいられないのである。

私はもう一度秋山に入って、残っている村の跡、傾いている墓の前に、心から「国破れて山河あり」 という詩を捧げたいと強く思っている。


ふるさとよ永遠にいのち若けれ 吉貞
プロフィール

石田吉貞氏は、明治二十三年当町反里の長男としてに生まれ、 村の小学校に学ぶ頃から学問を志しますが、家の事情から進学は望めず、独学で小学校の先生になりました。
八十八歳で大学教授を辞職するまで、地元小学校並びに県内小・中学校に勤める傍ら、さらに上級の 検定を次々と突破し、横浜浅野学園高校はじめ、大正大学、早稲田大学、 神奈川大学、昭和女子大等の教壇に立ちながら中世文学の研究に励み、昭和三十年、六十四歳の時に 「藤原定家の研究」で文学博士の称号を受けられました。
先生は昭和六十二年、九十七歳で逝去されるまで研究一途の生涯でしたが、その間、ふるさと津南町 をこよなく愛し、津南音頭や町内のほとんどの学校の校歌の作詞者としても知られています。


ご講演の記録者として  島田 仁

(前文は省略させていただきました)

さて、先生がお年九十三歳で来町され、「死ぬ前にどうしても郷土の皆さんに伝えておかなければ ならないことがある」と、情熱を傾けられ長講二時間のおよぶお話を、立ちつづけでなされたのが 「津南および秋山の歴史」でありました。
このご講演は、直ちに各報道紙に取り上げられ、また 聴講者はむろん、行政当局者にも大きな関心を呼び起こし、お話の裏付け研究を改めてすること ともなり、先生のお話の真実性が次々と証明されています。私の知る主な事柄を記してみます。

(一) 龍王大権現由来記(赤沢の古文書より抽出)天上山や龍ヶ窪と関連して熊野三社渡来、 中古より人家段々開け、郷土の長者は七堂伽藍を建立、繁華盛んなること都と等し。

(二) 古器物発掘の誌(赤沢・谷内両校統合に尽力した元芦ヶ崎村長内山之成記述文より) 新校舎建築の地ならしの際、石器・土器類出土、伝うる所に依れば往昔この付近に真言の大寺院あり 七堂伽藍も具はりたるものなりしが永正四年焼失したりと伝う・・・(昭和四年記)

(三) 桑畑の底に石畳(仏閣・墓石に専門知識の阿部和孝調査)昭和三十二年当時、芦ヶ崎小学校前に 桑畑あり、その底は広い石畳、所どころばらばらになった五輪塔があり底が石畳のものもあった (元芦ヶ崎教師)

(四) 谷内に真言宗の龍池山泉秀院あり、永正の乱で焼失、大井平善福寺開山のとき、泉秀院の本尊 ・聖観音も藤木氏から寄進(津南町史通史編上巻P181〜237)

(五) 中世の墓石である宝きょう印塔や五輪塔は、中魚・十日町区域ではほとんど津南町に見られ、 特に赤沢館址の南西に集中、貴族・高僧・上級武士たちが多く長く居住していたことを物語っている。 歴応四年六月、新田一族敗退後の建立は見られない(前記P172〜)

(六) 赤沢八幡社(村社赤沢神社)(新田義貞鎌倉攻めの際)源氏の守護神鶴ヶ丘八幡宮の御分影を 奉じ来て大井田の居館(赤沢の館)の坤位に祭った。後年、今の宮之前の地に奉遷。大赤沢八幡社と 以前は秋の祭日は九月十四・五日と同日。

(七) 相吉より平成四年、平安時代の住居址を発掘。なお相吉字上の原にも以前より熊野三社を祭って あったが昭和二十七年、本部落相吉の十二神社と合祀する。

(八) 谷内、熊野神社には周八メートル余の、樹齢千年ほどの御神木(杉)あり。

(九) 谷内の旧字名に、御所・下御所・御所原・熊の原・大門・払沢・宮の下・観音堂原・立石 などあり。

(十) 大谷内、地宝院は和歌山県内の熊野三社を支配する聖御院系統の修験宗、神仏混交の山伏院。

(十一) 高野山(こうやさん・こうのやま)は弘法大師空海開山の真言宗の根元道場、金剛峰寺のある ところ(和歌山県)赤沢平上の高野山(こうのやま)中腹の横根部落には、水にまつわる大師の伝説 話しが昔からある。

(十二) 秋山郷が俗化される以前は言葉も京言葉が残り、舞茸など発見者が目印をすると、取る者は なかった。

以上、御講和と係わりありそうな若干を挙げてみました。(以下省略)


最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。

皆さんはどう感じられましたか?思い当たるふしがあるのではないでしょうか・・・。
そういえば、大井平には祇園祭という行事がありますね。それも京都と関係があるのではないでしょうか?

それと私の赤沢平方面の友人の顔を思い出すと、皆、細おもての顔立ちで眉が薄く、目は切れ長 というのに気が付きました。
友人の一人は高校時代、眉に養毛剤を塗っていたくらいで、いわゆる「しょうゆ顔」 と呼ばれるタイプです。このタイプは「弥生人系」の大陸から入ってきた渡来人の 顔ではないでしょうか?

残念ながら私は縄文系ですが、母親は岡の出で、藤木姓でした。もしや、私にも「もののふ」の血が 少し混じっているのでは・・・などと考えるとまた面白いものです。

他にも津南町の歴史を語る貴重な話はまだまだありますが、いずれ近いうちに載せたいと思います。

ご意見、情報をお待ちしております。


石田吉貞氏の「若き日のために」は津南・中里・十日町の書店で扱っていますが、文化センター の図書室にもあります。(一応貸し出し禁止だが短期間なら大丈夫だと思います)
図書室には石田氏の中世研究書の他、2階ホワイエには石田氏直筆の原稿などが展示してあります。


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