ヤシコンシステムの終了に際して掲示板を設置してコメントを皆様からいただきました。
以下はその想いの記録です。


ヤシコンの思い出  投稿者: ささき(家主)  投稿日: 2月 2日(水)00時34分43秒 

わたしがヤシコンと出会ったのはそう昔ではありません。
あれは1998年も終わりのころだと思います。当時はキヤノンのEOSシステムを使っていて一眼レフにも慣れてきたころで、そろそろ趣味のカメラも買おうかと当時はライカM6などを買おうと考えていました。
そうしてふらっとはいった銀座の店でたまたまCONTAX Tを見つけました。小さいカメラもほしかったし、「カールツァイス」といういかにも写りそうなレンズがついているのも興味を引きました。そこでやや高かったものの入手して、さっそく銀座の街を撮ってみました。
あがってきたプリントは、、、ふしぎな写りだった、というのを覚えています。当時は一応Lレンズなども持っていたので解像力などに驚きはしませんでした。しかし、なぜかきれいなんです。
うまく説明できないんだけれども、なんだか自分がうまくなったような、世界が一皮向けて別な肌を見せているような、とにかく当時のわたしとしては不思議な写り、というしかありませんでした。

それで「ツァイスレンズ」というものにひっかかりをもちつつ、興味本位で見ていたのが、通称「緑の掲示板」、そうですSASAさんのコンタックスの随想の掲示板です。そこで語られるうそかまことかわからない不思議な話に引き込まれながら、レンジファインダーならEOSとかぶらないからいいかとCONTAX G1を買ってしまいました。レンズはプラナー50、ビオゴン28です。はじめてビオゴンの写りを見たときのショックは忘れられません。
そうしているうちに一眼レフもマニュアルだからEOSとかぶらないからいいか、と自分に言い訳をしながらシステムも拡充していき、いつしかグルッペ・ツァイスなどという団体にも加入してオフ会を重ねてだんだんとマニア密度は濃縮されて濃くなっていきました。

なんでEOSとこう写りが違うのだろう?という素朴な疑問からレンズの光学的な興味ももち、やがては歴史的な興味も広げていきました。
ヤシカ・コンタックスは私にとってはカメラを単に撮る道具という以上に魅力的に見せてくれ、写真を撮るという趣味をより深く楽しませてくれたのです。

ありがとう。
ヤシコンよ、永遠に。 

ヤシコンと私  投稿者: こばやし(店子)  投稿日: 2月 2日(水)10時51分15秒 

謹んで記帳させていただきます。
私がヤシコンと出会ったのは社会人に成ったころで、当時は石油ショック後でもあり、高価な一眼レフカメラを、誰が買うのか不思議に思っていました。私の仕事は映像関係の業界なのでツァイスは知っていましたが、コンタックスは知りませんでした。
一眼レフカメラと言えば、ニコン・キヤノン・・・等々、日本のメーカーが世界を席巻し、日の出の勢でした。しかし、先輩曰く、プロはツァイスのレンズを使っていると聞き・・・「いつか、いつかは、ツァイスを・・・」思うようになりました。
コンタックスを初めて使用した感じは、 何だこれ???・・・でした。それまでキヤノン・ニコンを使用して来た為何処となく、ポワ〜ンとした感じで締りが無いと言う印象でした。
世間の評判とだいぶ違うのでショックでした。多分これは私の撮影方法(腕)が悪いのだろうと思い。発奮しレンズを研究したり、色々なジャンルの撮影もしました。その結果、次第にコンタックス・ツァイスの特徴をつかむようになってからは、思いどうりの写真が撮れるようになりました。
ヤシコンは私にとって、考えさせる宝でした。ツァイスの双眼鏡を見るために、三笠記念艦に足を向けたこともありました。ヤシコンは、私の青春時代を共に歩んだ戦友です。戦友はカルチャーショックを与え、多大な記録・記憶を私に残しました。
此処に彼の功績を称えると共に、冥福を御祈り致します。
さようなら ヤシコン  ありがとう ヤシコン

さよならヤシコン  投稿者: 独身貧乏貴族  投稿日: 2月 3日(木)00時47分6秒 

今日という日が来たのは、早かったのか、遅かったのか。音信不通の身内が亡くなったみたいなおかしな喪失感です。
私がヤシコンと出会ったのは中学3年の時。写真に興味を持ち、一眼レフが欲しいと各社カタログをもらってきては眺めていた頃。各メーカーのカタログの中に一つだけ毛色の変ったカタログがあってそれがヤシコンでした。レンズカタログを見ても他社とは異なる呼び名と「桁間違えているんじゃないの?」と目を疑うような価格が掲示されていました。しかも修学旅行に付き添ったカメラマンが手にしていたのはRTS。又、当時多大な影響を受け毎日の様に眺めていた写真集「新野生学」でカメラマン内藤忠行が手にしていたのもヤシコンでした。「アラスカやニュージーランドのウィルダネスは透明度の高いシャープな映像にして欲しいな」と作者がいうと内藤は「コンタクスのツァイスレンズしかない」言う。今じゃこんなセリフ何処に行ってもお目にかかれないでしょう。時代もあるでしょうけど道具と仕事が幸せに結びついた作品でした。結局高校入学時に買えたのはニコンのEMでしたが、山で紛失してしまい以来山も写真も忘れてしまっていました。
時を経て30過ぎた私はひょんな事からカメラが又欲しくなり、なにを購入するか迷った挙句、中学・高校時代の憧れ、ヤシコンを選びました。最初はアリアと50/1.7のみ。しかし中古のRTS2を購入してからタガがはずれてしまい次々とレンズ・予備のRTS2、と使いこなせるとも思えないレンズを買い漁り、ごらんのHNを名乗る様になってしまいました。しかし、ヤシコンのおかげでこのHPでささきさんやみなさんと楽しいやり取りもさせていただきました。
今では一眼レフは全て手放し、手許にあるのはT-PROOFとLマウント改造ビオゴン28のみ。写真を撮る為始めた山登りも、スッカリ山に(沢に)行く事がメインになってしまい、じっくり写真を撮る機会は無くなってしまいました。それでも山行での写真を仲間に見せるとお世辞混じりでも「○○さんの写真って綺麗」といわれ「それはね・・・」と望まれもしないのに解説している今日この頃です。

もう少し落ち着いたらもう一度ヤシコンで写真をじっくり撮りたかった。でもそんな日はもう来ないのですね。さようならヤシコン。そしてありがとう。

いつかまた  投稿者: Kawasaki  投稿日: 2月 3日(木)21時37分35秒 

いい写真を撮りたい。
大学の卒業旅行を控え、初めて手にした自らの愛機が、発売されたばかりのTVSだった。カメラのことなんて何も知らないのに、その質感とたたずまい、そして、ラボからあがった同時プリントの夕焼けに映える雲を見て、自分の選択が正しかったことを実感した。

その年の春。就職して報道の現場に立った私は、皆と同じくNikonの一眼レフを新しい相棒に迎えた。火災や事故、事件に振り回され、機材を手荒く扱わざるを得ない境遇のなか、Nikonボデイーの頑強さとレンズのシャープネスに絶大の信頼を寄せる一方で、CONTAXを手にする機会は確実に遠のいていった。

転機は、瀬戸内の島の支局に赴任していた2000年の秋だった。F3の製造中止を前に、趣味の相棒にと、最終ロットをオーダー。箱から取り出した真新しいボディーにレンズを着け、高台に上った。眼下に広がる見事な夕景にピントを合わせてシャッターを切り、仕上がったプリントを見たとき、「違い」を実感した。夕焼けの空ばかり撮っていた大学4年のころの写真は、自分の感情とオーバーラップする何かが感じられていた。Nikonのレンズが写した夕焼けには、それが足りなかった。「CONTAXを使ってみようか」。自然にそう思った。

沼の感触が心地よかったのだろう。P85/1.2をはじめ、D18/4からM500/8まで12本のレンズと、2台のボディーが手元にそろった。類い希な個性と性能を引き出せているか。疑問の余地は残るが、撮るたび、そしてポジを見つめるたびに、写真が与えてくれる喜びを当初と変わりなく感じている。これこそがCONTAXの白眉と思う。

終止符は訪れたが、「現実を捉えるならNikon 感情を写すならCONTAX」との考えは変わらない。ヤシカ・コンタックスマウントがあったから、写真をもっと好きになった。ありがとう。そして、いつかまた、不死鳥のごとく蘇らんことを 

http://ww4.tiki.ne.jp/~takashi-kiwi/index.html

ヤシコンが教えてくれたこと  投稿者: 鈴木ねこ  投稿日: 2月 4日(金)00時02分14秒 

カールツァイスが使える。単なるブランド意識だけで、ツァイスの魅力はおろか、露出の意味さえ
知らなかった私は、ヤシコンで写真を始めました。実に不純というかバカな動機でした。
そんな訳で私は、ニコン、キヤノンなどの所謂国内のシステムについて、ほとんど何も知りません。
レンズには名前が付いているものだと思っていましたし、AFカメラは未だに使うこともできません。
絞り輪がレンズに付いて無かったりすると、欠陥品では?などと思ってしまいます。。
よって、ツァイスレンズの相対的な魅力というのも、実感としてはどういうものかわかっていません。
だからと言って、わざわざニコンと比べる必要も無ければ、ミノルタを買う理由にもなりませんので、
そのままヤシコンのレンズは自然増殖していきました。
そして途中色々ありましたが、数年前に、ヤシコンには自分からケリを付けました。
ヤシコン的なものは645に引き継がれたと、私的には判断しました。
よって、私自身の個人的な思い入れは、既にヤシコンにはないと言っていいです。

その目で改めて見つめて思うのは、
趣味で写真を撮るという世界において、時代やプロの世界を必ずしも追従する必要はないのだ。
という事を教えてくれたシステムだと思います。
その英断で手に入れることのできる、現実にはあまり役に立たないっぽいが、素晴らしいことの数々。
これはヤシコンユーザーなら誰もが実感していることでしょう。
そして、そのような部類の中でも、現実的な出費で手が届く、数少ない現行型のシステムであったとも思います。
これがひとつ消えるというのはたしかに寂しいですね。
同時に、35ミリにおいて、やはりツァイスはライカに負けた(寿命という意味で)。。
でもこんなものは本来、バブルと同時に無くなっていておかしくなかったかもしれない。
私はヤシコンそのものよりも、それを今日まで引っ張ってきた京セラに、心から感謝したいです。

ヤシコンは今やコンタックスの中の1システムに過ぎませんが、他のシステムにも明るい近未来像
を見出せないこと、これはヤシコンエンド以上に気が滅入る所ではあります。
が、これは京セラのせいではなく、時代の加速化が早過ぎたのでしょう。
京セラのマーケティングは確かにタコかもしれない(笑)。
しかし、だからかこそ、Gシリーズ、Tシリーズ、AXなどの、画一化から脱線したカメラ達を
見ることできたのでは?、何より、今日までヤシコンがあったのでは?
最近はそんな風に思ったりもします。
90年代後半という時代に、これらのものを市場に見れた事自体、奇跡と言ってもいいかもしれません。
京セラのそれは、決して懐古趣味という括りでさえもなかったと思います。
その勇気の代償に、本体がボロボロに傷ついていてもおかしくはないかもしれません。
静かな終焉も、私は悪く無いと思います。
そうすることで、一時的にでも市場に影響を与えず、暫くは需要をカバーする新品在庫を揺さぶることなく、サポート窓口をパンクさせることもなく、今、本当に純粋にヤシコンを必要としている
少数の人たちに安定した供給、サービスを、暫くのあいだ可能にするならです。
そのための企業の良心と、私は思うことにします。
企業ですから、色んな人の移動があり、その影響が製品開発にも反映され、スタッフにとっても
不本意なものが世に出ることは珍しいことではないかもしれません。
ここ数年のコンタックス製品を見つめていると、たしかにそう思わざるを得ない節もあります。
しかし、結果として30年(うち前半の10年はヤシカですが)、ヤシコンを提供しつづけた
京セラの業績は評価したいと思います。
そしてヤシコンの偉大なコンセプト、遺言を引き継いでいけるのは、やはり京セラしかいない。
ような気がしています。

京セラよ、今まで本当にありがとう。そして出来れば目を覚ましてくれ。。

ヤシコンは死なず  投稿者: アイルトン  投稿日: 2月 4日(金)11時27分11秒 

 僕とツァイスとの最初の出会いは、スーパーイコンタでした。大正天皇の近衛兵を務めたこともある祖父の愛用品で、『家一軒分の価値がある』という言葉に驚いたものでした。
 2回目の出会いは、ささきさんのHPでした。子供心に、すごいレンズであるということが記憶の中にあって、インターネットの検索で確かめてみたいと思っているときにたどり着いたのでした。
 ささきさんの解説と写真で、すっかりと魅了されてしまい、上野のアメ横カメラでPlanar50mmf1.4とYASHICA FRを購入。試写した、たった一本のフイルムの撮影結果に驚きを感じ、次第にカメラやレンズが増えていきました。そして、いつのまにやらf1.2記念レンズが2本も・・。
 Nシステムが発売されてから、いつかは来ると思っていました。製造中止であっても、M42レンズが使い続けられているように、僕は、ヤシコンが装着できるカメラがある限り使い続けていきたいと思っています。ヤシコンは死なず、です。 

ツァイスの不運  投稿者: ワイド・アングル  投稿日: 2月 4日(金)14時58分23秒 

ツァイスレンズの不運は、なんといってもボディに恵まれないこと。いっその事、一レンズメーカーとして各社のマウント用にレンズを作ったほうが良いんじゃないか、とさえ思えます。これだけの文化遺産が近い将来消え去ろうとしているのは、なんともやりきれない思いです。わたしはT2ユーザーですが、初めて観たプリントの素晴しさは未だに心に焼きついております。AFシステムは存続の様ですが、残念です。 

昔カメラ  投稿者: 大坂@GZ18  投稿日: 2月 4日(金)17時31分9秒 

昔 カメラ 齢みそぢに至りて 心地死ぬべくおぼえければ

遂に行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを

レックス終了の'72年の後、'75年にヤシカからRTSが出たように何所かが引き継いでくれるのでしょうか。ツァイス銘のレンズは既に沢山出ているソニーの映像機器が事実上引き継いだて事でしょうか。 

短かった現役時代、引退後もヨロシク  投稿者: べにすずめ  投稿日: 2月 5日(土)17時21分12秒 

私のヤシコン歴はわずか1年。
昨年初めての渡欧、たぶん最初で最後だろうと思い、綺麗に思い出を写したいがために TVS2とG2を買った。
帰国後すっかり銀塩にハマり、TVS2とG2を売却し、Ariaとレンズ2本を購入。
今年はさらにレンズを拡充しようとしていた矢先の訃報でした。
ボディー壊れたらどうしよう、と真っ先に思ったのがこれ。
翌日不心得にもヨドバシに走っていき、代替えになりそうな他社MFを弄りまわすが、まったく手に馴染まず。
コンタに慣れるとやはりコンタでなければ落ち着かない。
オヤジのFUJICA35は50年現役なので、コンタも末永く大事に使っていこうと思う。

http://buru.tea-nifty.com/nd/

いろんなことを教えてくれましたが  投稿者: Nori  投稿日: 2月 6日(日)23時39分9秒 

最後の最後に、「企業とはそういうものだ」ということも教えてくれたCONTAXでした。
客のものでも従業員のものでもまして社長のものでもなく株主のもの。
Newtonで感じた悔しさを、カメラでも味わうことになろうとは。
今持っている機材が使える間、もう少し頑張ってもらおうと思っています。
ありがとう、CONTAX。

さようなら 伝説に   投稿者: The foudation  投稿日: 2月 9日(水)18時33分9秒 

 佐々木さんのぺーじをみてContaxを買うことを決意しました。今から4年前の事です。その時お金が無くて137MDしか変えませんでしたが、私の書き込みへの「今後色々な機種を買われて幸せな写真生活を送られるでしょう」という佐々木さんのメッセージ通り今はSTとT2を買い足して、様々なレンズで幸せな写真生活を送っています。

 RTSの歴史が区切られてしまうのは本当に残念です。別にすぐに何かが変わる訳では無いんですが、何となく心の支えが一つ無くなってしまったような、寂しさがあります。やっぱり好きなんです。Contax. 

企業責任はありませんか  投稿者: Shin  投稿日: 2月 9日(水)23時36分4秒 

 2大メーカーと比較しても、とても魅力的なカメラとレンズを作ってくれました。感謝しています。あと何年使えるか分かりませんが、壊れるまでRXとP85mmF1.4を使っていくつもりです。
 ひとこと言わせてもらえば、京セラは、自己の利潤分析から通信デバイス事業を収益の中心として拡充するために、ここ数年不採算事業部となっていた光学事業の撤退を決めたのでしょうが、撤退をする企業に、いつも感じる消費者から見た不合理性をまた感じます。元来、利益追求のために存続しているのが企業であると分かってはいますが、ある程度の規模をもつ大企業には社会的に果たすべき役割が少なからずあると思っています。京セラにとって歴史的光学ブランドであるCONTAXの存続は、京セラの果たすべき責任のひとつであると思います。地場産業的中小企業とは異なる責任です。単なる収益偏重による企業判断は幼稚園児のいい悪いの考え方と何ら変わりません。
 この時代の傾向には逆らえないのでしょうが、大企業には、あまりに端的に物事を進めすぎて次世代への希望を根底から滅失させないでいただきたいと思います。
 撤退するならば、CONTAXブランドにより獲得した膨大なノウハウを何らかの形でユーザーに還元する努力が、京セラには必要ではないでしょうか。ただ生産中止のアナウンスだけではユーザーを馬鹿にしているように感じます。そう思うのは私だけかもしれませんが。
 私自身は自分の判断により、壊れるまでCONTAXを使っていきます。壊れても自助努力で直します(スキルの及ぶ範囲で)。私も大好きですCONTAX。 

悲しいですよね  投稿者: ろだごん  投稿日: 2月10日(木)17時22分18秒 

RTS(I)+P50F1.4 一本からはじまったコンタックス生活。後年はボディーに恵まれず、結局別のメーカーに乗り換えたものの、ツァイスのレンズを使ったら別のレンズに戻れる訳はなく、G2にレンズ3本購入し日常生活を楽しんで撮影していました。
元々京セラのコンタックス・カメラに対するアフターサービスの対応の冷たさには憤りを感じていましたが、何も生産中止にしなくてもいいのにといまだに怒りがおさまりません。
このサイトでコンタックスの魅力に触れ、ツァイス沼に沈み込んだ私としては、信州の救世主が発売するツァイスイコンのレンズを心待ちにするしかありません。
それにしても・・・いいレンズだったなあ・・・一眼レフ用のコンタックスレンズ。
ボディーだけでもどこかの会社で復活させてくれないかな・・・?

老兵は死なず  投稿者: pininbeat  投稿日: 2月10日(木)18時21分44秒 

憧れのニコンF3を買おうと訪れたなじみの写真館で、「F3もええけどこれ見てみ」と差し出されたカメラ。ファインダーをのぞいた瞬間、F3信仰はどこかに消えうせた。プラナー85ミリF1.4+RTSU。CONTAXとの付き合いは22年前のこの日から始まった。出会いがあれば別れもあるさ。でも俺にとっての別れとは生産中止のプレスリリースではなく、俺の目にガタがきた時だと思う。俺の目より長生きしてくれよ。U.V.D28.D35.P50.P85.MP100.S135.あっ それとT3。(AFなら大丈夫?でもNマウントは買わない!)

レンズが朽ちるまでは  投稿者: 白熊  投稿日: 2月12日(土)22時36分42秒 

消えゆくことを承知で、ごく最近レンズを4本揃えました。
Nの50mm/F1.4を使ってしまい、さらにY/Cの50mm/F1.4を使ってから
「同じ50mmなのに何かが違うと」感じたこのレンズ群が無くなる前に
是非手元に残しておこうと扱える範囲から揃えています。
ボディはともかくレンズは適切に扱えばかなり長命なはずですのでしばらくは
愛用していくつもりです。
カメラや写真が文化なのだと体に教えてくれた大切な機材です。
これらが死ぬことはありませんね。
ただ、メンテナンスを行う体制がどのような型でも良いので持続することを望みます。
1歳の娘とまだ生まれていない、もう一人に残してやりたいので。

思い出すことども  投稿者: ケバヨ  投稿日: 2月18日(金)02時34分35秒 

 小学生のころから、父が写真をやっていて、遠足といえばカメラを持たされたものでした。玄関を暗室にしてやっている父を覚えています。近所の4世帯が一つの水道を使うという昭和30年代でしたから、ご近所から水道の使いすぎという文句が出て、結果、水道が各世帯別になったものでした。都市ガスが入って、母が喜んだころです。土門拳のエッセイを読むと、そのころのことと重なります。
 写真を自分で始めた1980年代、139と50/F1.4から始めました。結局それから今日までずっとです。ボディは4台ほどつぶし、レンズは18から200まで。使うのはD28がほとんど。
 人の脳は10万枚ほどの映像を覚えているそうです。でも、自分で撮影して記憶に残っているのは、数百枚でしょうか。人生のその時々のひとこまです。それがコンタックスで良かったと思っています。
 子供の頃、父のアサヒカメラを盗み見て、ヌードにどきどきしてました。最近、そのころのをアサカメが掲載していて、見たことのあるヌードがあるのを発見。ははあー、これだったんだあ、と。
 最近、D20を家族のためと称して求め、私はコンタックスをつけて使っています。 
 でも、今思うのは、残ったフィルムを将来誰かが見るとして、その記録性の確かさについては、デジタルはそれに及ばないことですね。当たり前のことですが。
 息子が最近写真を始め、やはりコンタックスから。彼がいつか私が残したフイルムを整理するときに、余計なものは残しておきたくないなあ、などと、多少あせりぎみです。あっ、あの彼女の、どっかに残ってないだろうなあ、とか。
 そんな、危うい楽しみも残してくれました。自分の寿命から見れば、今の機材で私には十分で、どちらが先に使えなくなるのか、という程度ですから、コンタックスと歩んだ人生、と締めくくれそうです。機材はどうせ、息子が引き継ぐでしょうし。
 生産終了に際し、思うことどもでした。 

ばいばい コンタックス  投稿者: コンタフレックス  投稿日: 2月26日(土)00時41分37秒 

京セラのサイトの製造中止のお知らせにあるリストが墓碑銘のようです。
137とプラナ50F1.4の組み合わせが一番手にしっくりする組み合わせでした 
もうああいう道具はめったにでてこないでしょう ありがとうコンタックス

CONTAXに代わるもの  投稿者: Tomita  投稿日: 3月 1日(火)21時16分6秒

「CONTAXは復活するんだ」と信じて、ここへの書き込みはしないでおこうと思ったのですが・・・
どうも、ヤシコンだけはすまなさそうな様子ですね・・・
必ずしとも、良い道具が生き残らないのが世の常なのでしょうか?
我々にとってCONTAXに代わるものなどないのです。

さよならは言いません。復活を信じて・・・

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