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春の目覚めは早く、桜の日々は短い。
毎年この時期になると短い晴れ間をどこで使うかということで頭を悩ますが、考えあぐねると結局いつものところに落ち着いてしまった。
横浜はみなとみらい線の開通により終点の元町駅から洋館のある山手通りへはすぐに行くことができる。元町駅から地上へと登る長いエスカレーターに体を預けていると、ふと桜と古い洋館をセピアフィルムで撮ることを思いついた。
しかしそうしたフィルムが近くで売られているわけではない。少し考えて元町の商店街の方へ足をむけた。観光客で混んでいる元町の通りを避けて裏の路地へと足を踏み入れ、喧騒から離れて少し歩くと古びた写真館があった。

一本だけあります、とライトボックスの向こうからご主人が答えた。もう店を閉めるので安くしますよ、とつけ加えた。
聞くとかなり長い歴史を持った写真館で明治の頃からここに店を構えているということだ。しかしこうした写真館を続けていくのは大変な時代らしい。
店内には閉店セールの張り紙がしてあった。こうしたことには妙に反応してしまうぼくは少し店内の物色をした。あまりめぼしい用品などはなかったが、店の隅に雑多に積み重ねられた荷物の山の中にぱっと目を引くキャビネ版のきれいな写真の束があった。その写真は美しい金髪の少女の肖像写真でソフトフォーカスで撮られたものだった。写真の下隅にはF5.6、1/10、イルホード赤札、アイリスB、1923年8月などと書き込みがあった。

大正12年というとベリートかポートランドですね、と物知り顔でいうと主人は素直に感心してくれた。おそらく新しいもの好きな先代が輸入したものだろうとのことだ。ソフトレンズはピントあわせの使いこなしがむずかしく、知り合いに頼んで練習をさせてもらったのだろうと教えてくれた。撮影者のサインらしきところは主人も知らない名前で先代の下にいた撮影助手だろうとのこと。それにしてもきれいなプリントであり、美しい女性だった。
売り物ではないが興味があるならくれるということで、ぼくはその束をカメラバックにつめると店を出た。

ぼくは元町の川に近いところに喫茶店を見つけると、二階席の空いているところに陣取り道具を広げるとフィルムをつめはじめた。コーヒーが運ばれてきて気持ちがくつろぐとさきほどの写真が見たくなり、テーブルの上に取り出した。

一枚目の写真、いすに座ってこちらを向いている少女の表情は少し硬い。今で言えば高校生から大学生くらいだろうか、初々しくあまり撮られるのになれていないようだ。
二枚目も同じポーズだが、次の写真をめくろうとして写真の裏にも書き込みがあるのに気が付いた。
「8月7日 彼女がどうも硬いので今日は米国の言葉をひとつ覚えた。笑って、という意味らしい。"スマイル"というと少し反応してくれた」
そこで一枚目の写真の裏を見直した。やはりメモ書きがあった。
「8月1日 ぼくは山手の急な坂を登っている。丘の上の住人たちはブラフと呼んでるところだ。この坂を登ると美しい洋館の立ち並ぶ下とは別な世界が待っている。そして今日はちょっと面白いことがあった。」
少しはなれたところに覚書のようにマリア・ロウエルと書いてある。モデルである彼女の名前だろう。

三枚目、少し表情にやわらかさが出ている。
「8月12日 ぼくは今日も山手の急な坂を登っている。でも機材の重さは苦にならない。スマイル、スマイル、と登りながら言葉を繰り返す。
あいかわらず言葉はこれしかわからない、でもぼくの写真を彼女に渡すたびに距離は近づいているのを感じる」
四枚目、さらに表情は自然なものになり撮影者への信頼が感じられる。
「8月16日 今日はパーティーでの整列写真を担当した。西洋人たちはみな見たこともないドレスを着飾っている。でも彼女が一番綺麗だ。フォトメートルの隙間からそっと彼女だけ見ていた。
終わってからまた撮らせてもらえた。"スマイル マリア"というたびにピントガラスに浮かぶ彼女の美しさが引き出されていくようだ。」
五枚目では彼女の目の表情に微妙な変化が見えた。

六枚目は違う写真が挟まっていた。広いひな壇にひとり青年自身が写っていた。背の高い好青年だった。背景は豪奢な建造物だ。なにかの式典のときの機材テストのようだった。
メモにはこうある「8月19日 今日は居留地のグランドホテルで仕事だった。近くのクルップ・ゲルマニアの従業員の記念撮影だ。
横浜駅に降りてから、行く道すがら馬車道の沿道の柳は風に揺れ、銀行のドームが光り輝いていた。税関前の通りには客待ちの力車が整然と並ぶ。
対露戦勝の日をも思い出させる明るい光景。しかし山手の丘を登れない日はさみしい。
帰りに決心してハーカーを懐から出した。独逸製のフォトメートルだがこれまで少しずつためたお金で買ったものだった。それが消え、少し金が増えた。
堀川沿いに本町の方に回った。それでホテル裏手のパブリックホールで山手ゲーテ座の公演券を二枚買った。こんど彼女に写真を渡すときに一緒に封筒に忍ばせておくことにする。」

その次の写真は彼女の同じポーズだが、見た瞬間驚いた。写真が輝いて見えたのだ。
「8月26日 会っているのが分かればもう二度と近づけてくれないだろう。ぼくたちはゲーテ座のガス灯の明かりから離れると、人目を避けて少し離れた海軍病院の崖のところに来た。ここからは真下に山手の崖が海まで切り立ち、目の前には水平線まで広く海が広がっていた。夜の帳が下りていたが左手にはイギリス波止場までも一望にできた。
ぼくたちはただふたりでいつまでも海をみていた。」

写真はこれで最後だった。
1923という数字に記憶がかすかに反応するものがあったが、そのときは思い出せなかった。
喫茶店から外に出ると春の風が吹いていた。この元町と中華街の間の川がたしか堀川といわれていたはずだ。堀の内側の居留区は税関の内なので関内というと聞いたことがある。いまは川には高速道路が覆いかぶさっていて陽光も届かない。
気持ちを引き戻されたぼくは元町の駅まで戻るとそのまま元町の入り口から分かれて山手の坂を登っていった。右手には外人墓地が広がっている。いままではJR石川町駅で降りてイタリア山から散策をしていたけれども、いまは元町駅からはじめるのでこちらから山手を回っている。

彼もこの坂を登っていったのだろうか。あれこれ考えているときつい坂を登りきって外人墓地の前に出た。左手には岩崎博物館が見える。ゲーテ座跡地に再建されたものだ。
外人墓地では今日はなにかの記念日とかで普段より奥まで開放されていた。外人墓地は隠れた桜の名所でもある。
ぼくはなかに入っていった。

中には一本大きな桜の木があった。普段はここで折り返しだが、今日は奥まで進んでいける。外人墓地は奥に行くほど古い埋葬地域になっている。埋葬された人の多くはいまは縁故者もなく、この辺に来ると墓は碑文も読めなくなり荒れたままになっている。
ぼくはカメラを構えるとセピアでの構図に気を配りながらいつもどおり墓石の並びをスナップしていた。しかしあるところまで来て、ファインダーから思わず目を上げた。
その道路の傍らにひっそりと立っている墓の墓碑銘を今一度読み返した。
かすれた碑文に桜の花びらがまとわりついている。

Maria Lowell
1905 - 1923
born in new york,
died of kanto-daishinsai earthquake, yokohama
september 1st 1923.

瞬間に写真があれで最後だった理由が理解できた。その日、関東大震災のとき東京と横浜では10万以上の人々が死んだという。山手の丘の家々も多くが消えた。
彼の気持ちいかほどだっただろう。きっと長い間彼女の姿を求めてがれきの間をさまよっていたに違いない。
ぼくは汚れた碑文をすこし拭いてあげ、荒れ放題になっているまわりの雑草を少しむしってあげた。埋葬者名簿に記載されていたとしても古い墓はもう忘れられていっているのだ。

すると墓石の裏側になにか棒状のものが倒れているのを見つけた。良く見るとそれはフラッシュの支柱の一部である鉄のブラケットであった。
そして、それには荒く削りこんだ文字でこう刻んであった
スマイル、 マリア
ブラケットの根本には
昭和19年と日付がある。それから考えるとおそらく彼が戦争への出征前にここに立ち寄ったのだろう。もう会いにこれないことを覚悟していたのだと思う。
それまではずっとここに会いに来ていたのだろう。山手の坂を登って。
昭和19年というと1944年だ。わずかひと月の出会いは20年もの間忘れられることはなかった。彼らは結ばれるまで言葉をひとつしか交わせなかったのに。
しかし人の想いの強さを交わした言葉の数で測ることに意味があるのだろうか。彼女が微笑み見つめ、彼が撮影した写真という紙の上に想いは全て満たされていた。

彼らの生きた時代のグランドホテルもゲーテ座も大震災ですべて倒壊した。それを生き延びた人々もやがて遠く海のかなたでたくさん死んだ。
いまは海軍病院の跡地はきれいに整備されて港の見える丘公園と呼ばれている。でも、もうそこから海は見えない。
あまりに多くの時間が過ぎた、もう日の下で並んでも文句を言うものもいないだろう。ぼくはブラケットを彼女の墓石に寄り添わせてあげた。
さっき拭いた彼女の墓碑銘を舞い落ちる桜がもう覆い隠していた。それは少し恥ずかしげに見えた。

2004/5/25



*この物語はフィクションです。
しかし横浜の描写はほぼ1923年当時を再現しています。
関東大震災では東京・横浜のほとんどの建物が倒壊・焼失し、全体で14万人もの死者がでました。それで生じた横浜上空を覆う黒雲は遠く立川から撮った写真にも残っています。
山手に当時あった洋館もほとんど大震災で倒壊しているので、現在見られるものはすべてその後に立てられたあと山手通りに移築されたものです。横浜の洋館街と神戸などの他の場所の洋館街との大きな違いはこの大震災での喪失にあります。
なお当時の横浜駅は現在のJR桜木町駅です。また当時の露出計(フォトメートル)は電気式ではなく光学式でした。

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

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