〜忍の巻〜

 (今日も朝が来た。..あぁ、また一日が始まるのか。)
夜明けの薄明かりの中、瑠璃は静かに目を開けた。

(一日が始まる。また、一日が。そして恋人達はまた絆を深めるのだ..その逆はない。戻ることはないのだ。)
(あぁ、いや。どうにかして時間を止めて。)

「いや..いやよ碧珠。..碧珠、..あんなひとと過ごしてはいや。」
瑠璃は布団に顔を埋めた。
目覚めると同時に涙が溢れ出る。毎朝、そうだ。
 碧珠が、交神の儀に出かけてからは。

「あんな..あんな美しい女神(ひと)といて、碧珠が愛してしまわないわけがない..交神の儀に行く前から、絵姿を見て楽しみにしていたもの。..1ヶ月も一緒に過ごすなんて..一つのしとねに共に身を横たえて、蜜月を過ごすなんて..」
(今、碧珠はあのひととどうしているのだろう。)
自分の愛しい人が違う相手を抱いているところなんて想像したくもない。なのに、そんな情景が頭を離れない。
 目覚めてすぐ、腕を互いの体に回し微笑み合う、女神と碧珠。それぞれの目にはお互いの姿しか見えていないに違いない。

「いや..いやよ..。」
瑠璃は声を殺そうと袖を噛みしめ、泣いた。
 胸がきりきりと痛かった。
(あぁ..神はどうしてこんな痛みを私に与えるの。こんな..死んでしまった方がまし。生きて朝を迎えるなんてもういや..)

「..碧..珠..。」
己の愛する者の名を、ゆっくりとなぞるように、そっと呼んでみる。
愛しい、愛しい、けれど決して手に入らぬ心。
(私には何も出来ない。..二人が惹かれ合い愛を深めて行くのを、どうすることも出来ない。)





 一族は、誰かが交神の儀に出ている間は、討伐に出かけない。
(せめて戦っていられれば気も紛れるのに。)
稽古場に出てはみたものの、鍛錬に身の入る筈もない。
 ふと気を弛めると、所構わず涙が出てしまう。
だが昼間は泣くわけにいかない。他の者に気付かれたくはない。
(あぁ..でももう、どうでもいい。..私が碧珠を恋している事など、誰にわかってしまったところで、もういい。)
薙刀を置き、履き物を直すふりをしてうずくまると、瑠璃はこらえ切れない涙を地面にぽたぽたと落とした。
(もう、どうだっていい..。)





 自室に戻り書物を広げてはみたが、目は同じ行をたどってばかりだ。
いつしか瑠璃は、追憶に浸っていた。



 「瑠璃、だったよな。なぁ、俺に術を教えてくれよ。」
それが、瑠璃が最初に憶えている、碧珠の言葉だ。
「えっ。..ええと..」
「碧珠、だ。」
「碧珠兄さま。」
「いいよ、呼び捨てにして。だって、一ヶ月しか歳が違わないんだよ、俺と瑠璃は同い年みたいなもんだろう?」

そう言って、屈託なく笑った顔。
日に焼けた肌に、真っ白な歯。まだ幼さを残す少年でありながら、頬っぺたについた生々しい切り傷が、すでに厳しい戦を経験した事を物語っている。
 それが、瑠璃が物心ついて初めて記憶に焼きつけた、碧珠の顔だった。

 薙刀士の血筋は生まれながらにして術のエキスパートだ。
ほんの子供に過ぎない瑠璃もまた、例外ではなかった。
一方、それほど術の素質を持たない碧珠は、簡単な術一つ覚えるのにも四苦八苦していた。

 「ちくしょう、なんでそんなに簡単そうにやるんだよぉ、ちびのくせに」
「今は関係ないわよ、こうよ、こう、だってば。」
「..こ、こう?」
「違うー、..んー、わかんないかなぁ」
「なんだよぉ笑うなよっ。」
「笑って..あはは、笑ってないってば」
「あーっ、笑った!やっぱり笑ったぁっ」
「あはは、だってぇ..。あっ、いけない、もう行くね。」
「あっ、待てよ瑠璃!完成するまでつき合ってくれよ..」
「やぁだよぅーっ、碧珠の練習につき合ってたら日が暮れちゃうよー」
「ちぇっ、かわいくないやつ!」

 子供同士の、他愛もない日々。
(あの日に帰りたい..。)



 そして瑠璃の初陣の時、碧珠は瑠璃を護ってくれた。
「いいか、俺から離れるなよ。お前は、俺の事だけを見ていろ。」

そう言われた時、胸がキュンとしたのは何故だったのだろう。
初いくさは、怖くなかった。
碧珠が、護ってくれる。
ただひたすら、その姿を見失わないように走った。
果敢に槍を振りかざし戦う少年の背中を、瑠璃は頼もしく見上げていた。

(そうよ、碧珠。私は、いつだってあなたの事だけを見てきた。)



 碧珠と並んで戦うようになっても、その気持ちは変わりなかった。
私には、碧珠がいる。
そう思うと何も怖くなかった。
駆け出して行く碧珠の背中を、いつも追いかけ、援護した。
(碧珠が先陣を切り、存分に槍を振るえるのは、私の援護があるからだ。)
(私は碧珠に信頼されている。)
瑠璃は誇らしい気持ちでいっぱいだった。



「俺たちは、ほら、ツーと言えばカーじゃない?」
何の話を始めるつもりなのか、そこで言葉を切って碧珠は、真っ直ぐ瑠璃の目を見る。
「え..」
胸が高鳴り、慌てて瑠璃は顔を伏せる。
「..だからいいんだけどさぁ、あいつらはいちいち言わないとわかんないじゃん?だから困るんだよな、戦うのは4人なんだから、俺たちの動きをもっとわかって欲しいんだよなぁ。」
顔が紅潮しているのを見られまいと瑠璃は必死で、答えようもない。
(碧珠、どうしてそんなにドキドキする事を言うの?..もしかしてあなたは、私のこと、愛してくれてるの?それとも、他意はないの?)

 軽口をたたいてじゃれ合う、歳の近い2人だ。術や武道を教え合い、共に戦う息の合ったコンビではあった。
 だが、瑠璃が碧珠の気持ちに今一つ確信が持てぬまま、月日は過ぎていった。





 一度だけ、瑠璃は碧珠と二人きりで討伐に出た事があった。

 最初の夜、碧珠が、食事を作ってくれた。
「俺、お前が戦に出る前は一番年下だったからな、食事係やらされてたんだよ。結構、上手いんだぜ。まぁ、食ってくれ。」
そう言って手際よく支度をする碧珠の横顔を、瑠璃は眺めていた。
かがり火が赤々と燃え、空気は暖かくかぐわしかった。
 幸せな、幸せなひとときだった。

 翌日は、瑠璃が心を込めて手料理を作った。
「うん、旨い、旨いよ。」
願を掛け、そっと口づけた香味菜を刻み混ぜた料理を、碧珠は知らずにきれいに平らげてくれた。
 あのおまじないは、効いたのだろうか。

 (あの遠征は、楽しかったな..。)
夜は、もちろん、別々に寝た。碧珠が、瑠璃の寝床へ来て優しく抱き寄せてくれはしまいかと、瑠璃は願ったが、もちろん何も起こらなかった。
だが、瑠璃にとってあの1ヶ月は、碧珠との蜜月に他ならなかった。
 その間、好き、と言おうと何度も思った。
でも、言ってしまったら今までの関係が壊れてしまいそうで怖かった。
瑠璃にはどうしても、それは言い出せなかったのだ。



 また、こんな事もあった。雪の大江山での事だ。
寒さに震える瑠璃に、碧珠は自分の外套を脱いで着せかけてくれた。
あの時、碧珠はとても優しい目をしていて、瑠璃はもう少しで碧珠が愛を告白してくれるのではないかと思ったほどだった。実際は、碧珠は無言で行ってしまったのだが。
 外套は碧珠の匂いがした。
夢のようだった。誰も注意を留めていないのを幸い、瑠璃は何度も深呼吸をし、まだ残る碧珠のぬくもりに夢中で頬をすり寄せた。
 胸の奥がジンと熱くなり、涙すら湧いてきた。
(あぁ、碧珠。好き..好き..本当に好き。..好きなの..。)
うれしいのに哀しいような、切ない気持ちになって、瑠璃は泣きじゃくりながら何度も何度も外套に口づけ、それが碧珠自身であるかのようにきつく抱きしめた。

 大切な、思い出。
あれが、もっとも碧珠に近づいた、最後の思い出なのかもしれない。





「碧珠、..あなたは私の事が好きなの?」
何度尋ねようと思い、そのたび思いとどまってきた。
 尋ねないで良かったのだ。
何故なら。

 「瑠璃、俺、交神に行くんだ。」
「えっ。」
「なぁ、偶然だと思うかい、絵姿を見て気になってた神さまと、俺、交神出来るんだ。なんかそれって、運命の恋って感じじゃない?」
瑠璃が返事をしないのにも気付かないで、碧珠ははしゃいでいた。
「..碧珠、その女神さまが好きなの?」
「うん?..そうだな、会って、その、..交神の儀をして、一緒に過ごしたら、きっと好きになると思う。お互いの事がわかったら、きっと、好き合えると思う。」
「..お幸せにね。」
「あぁ。ありがとう。」

 (いや!いやなの!碧珠、行かないで。神さまの所へなんか、行かないで。..好き、あなたが好きなの。私、こんなにあなたが好きなのに..)
その夜は自室にこもり、布団をかぶって泣いた。
泣き叫びたいのを必死でこらえたため、噛んだ拳は傷だらけになった。
そこまでしても、決して碧珠には知られたくなかったのだ。
(私がこんなに泣いていると知ったら、碧珠はもう、私をこれまでのように近しくは扱ってくれまい。距離を置くようになり、きっと気味の悪い生き物でも見るような目をして私を見るんだわ。恋していただなんて..そんな感情を抱いてずっとそばにいたなんて、って。碧珠はこれっぽっちも私を、異性として愛してなんていない..私は、ただの仲間だ。最も近くで戦う、でも、仲間なんだ。)

 きりきり、きりきり。
胸に杭を打ち込まれるような、いや、心の臓を刃で切り刻まれるような、痛み。
忍ぶ恋。
心に、刃を乗せるのが、「しのぶ」と云う字。





 追憶に浸るうち、うとうとしたらしい。
今は眠りに逃げ込み意識を失う事だけが、唯一の安らぎだった。

 だが今日は、さらにもっと辛い局面が瑠璃を待っていた。
「碧珠さまが交神の儀からお戻りになりましたぁ。」
イツ花の声が響きわたる。

 瑠璃にはわかっていた。
自分は、にこやかに碧珠を迎えることだろう。
そして瑠璃も、交神する。数日しか共にいられないのを残念がる碧珠をなだめて、瑠璃は出かけて行く。
そして神に身をゆだねるだろう。決して心を開くことなく。当主の決めた相手がどんな神でも、構わない。

 唇におだやかな笑みを浮かべ、瑠璃は立ち上がった。
(碧珠。..忍ぶのも、きっとあと少しよね。)

 碧珠も瑠璃も、どちらも、残された寿命は少ない。









 










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