〜河の巻〜

 同じ状況が、以前にもあった。

(愛する者の命を、終わらせるとわかっていながら。..それでも帰還しなくてはならないのか。俺は、こんな苦しみを二度も味わう運命なのか。)
僚は唇を噛んだ。

 傍らに控える、開(カイ)をちらりと見る。
河の息子、開。
能力の高さはともかく、開は外見は河にあまり似なかった。

 すでに僚の背丈を越えようとしている大きな身体にも、ごく並の容貌の顔にも、河を思わせるものは一つもない。髪と肌の色が同じであっても、こうも違うのかと思う。
 その瞳が気遣わしげに、僚を見ている。
まだ初陣の少年なのに、開は無口だ。
(開には、どこか憂いのある、大人びた雰囲気があるな。..次期当主としての重責を自覚しているかのようだ。)

 「開、帰還の準備をしていてくれ。だが今日は、ここでもう一泊する。」
「はい。」
「俺は、..悪いが、ちょっと出てくる。」
そう言い置いて、僚は天幕を出た。

 月の明るい晩だ。
もとより、どこへ行こうというあてもない。
美しい従兄の面影を、ゆっくりと思い、一人泣きたかった。
(なぁ、河。..今夜くらいはゆっくり、いろんな事を思い出してもいいよな..。)





 思い出すのは、あの時の事だ。
母を失おうという時、僚は、当主の河に、理不尽と知りつつ駄々をこねて泣いた。
もう子供という歳ではなかったが、あの時は、体ごと河の胸にぶつかり泣きじゃくった。
(河のやつ、一体あの時、どうして俺にむしゃぶりつかれて一歩もよろめかずいられたんだろ。..ちょっとした術でも使ってたのかもな..)
自分がもし今回、開に同じようにして泣かれたら、自分はあの大きな体をしっかり受け止めてやれないだろう。もっとも、開はそんな事はするまいが。
(河、あいつ..。)
河には不思議なところがあった。
一目見たら目を外らせたくなくなるような、並外れた美貌だったが、それだけでなく、何か妖しい妖艶さ、といったものも、河にはあった。
「技」の素質、特に水の素質が、河に術の巧者としてのそういった雰囲気を与えていたのかもしれない。

 今もありありと思い出す。
河の、肌の暖かさ。
規則正しく打っていた胸の鼓動。
頭を抱いていてくれた、手の感触。
僚が泣き止んでふと気付くと、河も静かに泣いていた。そしてその低い嗚咽の声を聞きながら、いつしか僚は眠ってしまったのだった。

(俺よりも河こそが、深い悲しみと苦しみを味わっていたのだった。)
今の僚には、それがわかった。
帰還の命令を下す立場に立つ、その苦しみが。
(俺は今回初めて、隊長として討伐に出た。それがどんな判断であっても、皆はそれに従うしかない、そんな底知れぬ重い責任を、初めて感じた..。)
2ヶ月から当主だった河は、一体どれだけの重圧に耐えて命令を下して来たのだろう。
(この命令だけは下したくなかった筈だよな、河..)
帰還する、と自分が言わなければ、と、河も思ったに違いないのだ。

 そして今度は、僚がそう命じる。
今度失うのは、河の命だ。
誰よりも失いたくなかった。僚の、母よりも長い月日を共に過ごした、母よりももっと大切な、河。

 今月の始め、訓練を終えた開を僚に託し一人屋敷に残る、と河が言った時に、もうわかっていたのだ。
これが別れになると。
寿命の来た者は、月が変わり討伐隊が帰還すれば、もう生きていられない。
ただ、河には次期当主指名の責任がある。
そのためだけに、河はまだ生きているだろう。

 (河、逝くな。俺が屋敷に帰っても、死ぬな。)
想いは尽きなかった。誰はばかることなく、僚は涙を流した。





 その時は、やって来た。
「次期当主を、御指名下さい..河様。」
涙をいっぱいにためた目で、イツ花が促した。
河はもう声が出せないようだ。
目の動きで、ただ、わかった、と示す。

 その痛ましい様子が見ていられなくて、僚は席を外そうかとすら思った。
だがその時、イツ花がこう言ったのだ。
「次期当主は、僚様でよろしいですね?」

意外な指名に驚いていた僚は、河の声にはっと我に返った。
「開、これで別れだ。..後のこと、よろしくな。」
開は言葉が見つからず、ただうなずいて、そして静かに父親のそばを離れ部屋を出ていった。
「僚様、どうぞ河様と二人きりでお過ごしになってあげて下さい。」
そう言うとイツ花も出ていった。

「僚..。」
河に呼ばれ、慌てて僚は枕元ににじり寄る。
「河、大丈夫か」
河は唇を笑みの形にして、微かに首を振った。
「..もう..駄目だよ。」
死期を前に、河はなお美しかった。
血の気の失せた肌は白く透き通り、河は水か何かの精のように見えた。

屋敷に着いて装備を解くいとまもなく、河の寝室に駆けつけて、今やっと僚は、河とゆっくり言葉を交わせるのだ。
「どうして俺を当主に」
問いかけたところを、河の細い手がさえぎった。
「全部、手紙に書いた。後で..読んで。」
「う、うん。わかった。」
僚が討伐に出ている間、河はいろいろ準備したに違いなかった。僚は、それを今説明させる愚に気付き、口をつぐんだ。
「僚。」
「うん?」
「..ここへ来て。」
「え、でも..」
戸惑いながらも、躊躇する暇などないと判断した僚は、河が招くままに一緒に布団に入った。
「河、大丈夫なのか..」
「うん。..少し、力をとっておいたから。..まだ少しの間、生きていられる。」
そう答える間近で見る河の顔色は、確かに微かだが先ほどより血の色がさしている。
「..河..。」
狭い布団の中で、自然に僚は河のか細い体を抱く形になる。
「あぁ、暖かいな。」
河が小さな子供のように、僚の胸に頭を擦り寄せる。
「僚、こんなにドキドキして。」
「だっ..だって..河、..お前..」
力をとっておいた、と言った通り、河はひととき、元気を取り戻したかのように振る舞っていた。
「心配するな。何もしやしないよ。それとも何かした方がいいかい?」
「何か、って.?!..な、何言ってんだよっ」
僚は交神に行っていない。そんな経験の無い僚は、河にからかわれているとも知らず、ただもう大汗をかいてうろたえるだけだった。

「可愛いな、僚は。..安心しろよ、暖めて欲しいだけだから。..俺もうすぐ死んじまうんだからさ。」
「河..あぁ、そんな事言うなよ。」
そう言われて僚は、腕の中のぬくもりがいとおしくてたまらなくなる。
「なぁ..僚..ずっと抱いてて欲しいんだ..こうしてお前と、とりとめの無い話しながらさ、すぅっと眠くなるみたいにして..」
河の声が消えるように小さくなり、僚ははっとして河の顔を見る。
「..河?」
河は、やはり本当に、死につつあるのだ。
「あぁ..ごめん。今、更姉さんがお迎えに来てた。」
「何言ってんだよ、まだ早い、って、母さんに言っとけよ。まだ早いよ!」
「..俺、どのくらいもつかわからないけどさ、朝が来るまで誰も部屋に来ないように、イツ花に言ってあるから..だから..」
「う、うん。だから?」
「だから..僚..途中で俺が逝っても、こうしていて..」
「あぁ。わかった。」
「..寒い..」
僚は慌てて河の体をしっかりと抱きしめる。
「しっかりしろ。まだ、大して話もしてないじゃないか。」
「そうだったな..そう..。僚、そうだ、お前にあの話、してなかったな..」



 それから一体どのくらいの時間、話しただろう。
河は、消え入りそうな声で、だが思ったより長く話をした。
僚が生まれ、更が僚の訓練に入ったため、たった一人で出場しなくてはならなかった御前試合の話をはじめ、僚には初めて聞く話もずいぶんあった。
「あの試合はひどかった。最初に『くらら』かけられてさ、目覚めそうになるたびまた眠らされて、反撃のしようも無いうちにボコボコにやられてさ。」
「なんだ、だから翌年の試合の時、『去年の借りを返してやる!』って言ってたんだな。」
「そうさ、..あんな奴ら、一撃で全滅してやるものをさぁ。」
河が、自分より遥かに弱い乙女たちに寄ってたかって攻撃されているところを想像すると、悪いが僚は笑ってしまった。

「それから..そう、だから更姉さんは、俺と一番最初に会った時に『私の事、おばちゃん、って言ったらぶつわよ!』ってさ..だから、俺、..更姉さん..」
一見するとそれは、ただ河がうとうとと眠りそうになっているようにしか見えなかった。
「うん、それで?..河?..それから?」
僚はあいづちを打ち、話を促す。が、話の続きをもう聞けない時が、とうとうやって来たようだった。
「..河..眠ったの?..河。」
のぞき込むと、河の顔には笑みが浮かんでいた。
その唇の前に手をかざしたが空気の流れは感じられず、薄い胸に耳をあててももう、鼓動は聞こえなかった。

 徐々に冷えてゆく河の屍を、僚は朝まで抱いていた。
「河..もうすぐ俺もそっちへ行くよ。」
だが僚には、まだやる事があった。

 朝になったら僚は、河の遺した手紙を読み、あと数カ月とはいえ当主としての責務を果たさなくてはならない。
 本来すぐに開が指名されるべき当主の座を、いったん僚に預けるからには、何か特別な考えがあるのだろう。その考えを理解し引き継ぎ、実現するのが僚の務めだ。

 そうしたら開に後を託し、僚も旅立つのだ。









 










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