〜神馬の巻〜

「慎兵、..慎兵ってばぁっ待ってよぉっ」
走って来た多恵は息を切らして立ち止まり、叫んだ。もう息が続かない。

 黒い影ははるかかなたに小さく遠ざかってゆく。多恵をあざ笑うように一声、いななく声が風に乗って聞こえてくる。
「慎兵、お願い止まってぇ..今日は大事なお勤めの日なんだから、連れて戻らないとあたしが怒られるんだからぁ」
黒鹿毛の駿馬は、そんな少女の気も知らぬげに気持ち良さそうに駆けていたが、やがてようやく戻る気になったらしくぐるりと大きく円を描いて戻ってきた。
すかさず多恵は駿馬の首を捕らえると手早く端綱を付け、馬の気が変わらぬうちにと、さっさと引いて今来た道を引き返し始める。

 「..心配かけないでよね、慎兵は大事な体なんだから...んもうっ、わかってるのっ?」
馬は今度はもうすっかり大人しくなって多恵に甘えて鼻づらをすりつけ、寄りかかるようにして歩いている。

 慎兵と呼ばれるこの駿馬はまだ若かった。つやつやした黒い馬体には張りがあり、今の遠駆けでもわかる通り、その脚は衰える気配もない。
「..まだ走りたい気持ちもわかるんだけどね。」
こくこくとうなづくように首を振り振り歩く慎兵が、多恵の言葉をどこまで理解しているのか定かではないが、多恵は構わず話す。もう、そうやって慎兵を相手に話すのが習慣になっている。



 いつの頃からか、貴族・豪族の間で競べ馬(くらべうま)が流行るようになった。
戦場でより速く駆ける、強く優秀な馬が求められ、武将たちが自慢の駿馬を持ち寄って競わせるようになったのが競べ馬の起こりだが、それが年に幾度かの行事となり、今や名家では競べ馬専用の馬を飼い馬丁をおいて世話をさせるようになっている。
多恵は、父の手伝いをするうち馬丁の一人として慎兵のいる馬房で働くようになった。まだ若い少女ながら、寝食を共にする駿馬、慎兵の事なら誰よりもよくわかっている。



 (わかってるって、お多恵ちゃん。俺だって今日はお勤めがあるって知ってるさ。そうカッカしなさんな。)
慎兵はそんな多恵の横顔を見ながら心の中で答える。馬である慎兵がもちろん人語をしゃべれるわけはないのだが、実は彼は人間の言葉を理解していた。

 多恵と慎兵が戻ってみると、厩にはもう今日の種付けの相手が来て待っていた。
「よろしくお願いします。」
牝馬を連れてきた馬丁は緊張の面持ちで頭を下げる。背の高い青年だ。汗をかき頬を紅潮させている。
「すみません、親父が連れて来るはずだったんですが、他の馬にちょっと面倒が起こって、それで..あの、俺、初めてなんです。」
青年は自分よりどう見ても年下の少女の多恵に丁寧に頭を下げ、素直に多恵の指示する手順に従った。
多恵はもう、この作業は慣れている。慎兵が種馬となって2年、ずっと多恵が慎兵の種付けを介添えして来た。



 慎兵は賢い馬だった。
馬は種付けの時には普通「あて馬」といって、本来の種馬でない別の牡馬を近づけて牝馬の様子をみる事をする。牝馬がすっかり発情に至っていない場合に後足で蹴られる危険があるので、高価な種馬に怪我をさせない為だ。だが慎兵にはあて馬は不要だった。慎兵を相手に迎えると不思議とどの牝馬も大人しくなるのだった。
 だが、何にしてもどんな事故が起こるかわからない。油断は禁物、青年も多恵も、どちらも自分の大事な馬の命がかかっているのだから真剣そのものだ。

 多恵が、用意してあったぬるま湯を手桶に汲んで、発情した慎兵の性器を手早く洗い清める。多恵の掌に大きく張った熱い血潮の感触が伝わってくる。
(今日もきちんとお勤めが果たせそうだ。)
処女の多恵は人の男と女の交わりの事など解らない。ただ、大切な慎兵が一頭の牡馬として、きちんと交尾を果たす事、とどこおり無くそれが果たされる事だけを祈り見守るだけだ。
「どうどう。..大丈夫だからな。大丈夫だからな。」
青年は牝馬の首を叩いてなだめているが、自分の方がすっかり汗をかいている。

牝馬は、鼻面にくっきり白く太い流星が通った、なかなか美しい栗毛だった。
上背は大きくないが、がっちりとした体に、賢そうな瞳をしている。
慎兵ほどの高価な種付け料の種馬を子馬の父にと望むくらいだ、きっと連戦の優駿であったのだろう。

(慎兵さま、はじめまして、よろしくお願いします。)
牝馬が一声、いなないて挨拶した。
(よろしくね。貴女の名前は?)
(白菊、と申します。)
白菊は慎兵の欲情のオーラに当てられて、ぞくっと身を震わせる。甘美な匂いにめまいがしそうだ。白菊にとってはこれが初めての種付けだ。だが今は不安も忘れ、気が付くとひたすら慎兵への慕わしさだけが募って来る。
(貴女はずいぶん走ってきたのかい。俺が走らなくなってから、淀の馬場が新しくなったそうだが、淀の試合は出たことがあるかい?)
(ええ、私、女だてらに競べ馬の全ての試合場を巡り馬場を走って来ました。)
(それはすごいなぁ。俺は、ずいぶん早くに引退しちまったからとてもそんなには回れなかったよ。)
そんな話を枕語りに、二頭はつつがなく交尾を終えた。見守る二人の人間もほっと安堵のため息をつく。

 引き離されて行く時、白菊は名残惜しそうに何度もいなないた。
(ありがとう慎兵さま。私、貴方が好き、またお会いしたい..。強い良い仔を産んで、きっとまた来ます。)
(あぁ、またおいで、白菊さん。良い仔を産んでくれ。でも俺の仔だといってもあまり期待すんなよ。)

大任を果たし、さぁ日暮れ前に大事な馬を連れて帰ろうと、別れの挨拶をする段になってやっと、青年は今初めて見たようにはっと目を見開いてまじまじと多恵の顔を見つめた。こんな可憐な少女がこの棹馬を御していたとは、今の今まで気付かなかったのだ。
だが青年は何も言わず、料金を支払い、多恵に深くおじぎをすると白菊を引いて帰って行った。





 翌年の春、白菊は無事出産した。慎兵に似た黒鹿毛の牡馬だった。

「慎兵、白菊さんの子が若駒の試合で一番を取ったんですって。これであんたにも勲章がまた一つ増えたわ。」
多恵がそう告げると、慎兵は心なしかうれしそうに聞いているようだった。





 そしてまた、春が巡り来る。
(慎兵さま、..私、来ました。)
(白菊さん。待っていたよ。)
(あなたの仔は強く育ちました。おかげで、たくさんの賞金をいただけて、こうしてまたあなたの元へ私が来る事が出来た..)
(そうだってね。..さぁ、おいで。俺に、会いたかったかぃ?)
(ええ、会いたかった。とても会いたかった..)

「白菊のやつ、とってもうれしそうだなぁ。」
「慎兵も、なんだかいつもより、優しくしているみたい。」
「白菊は、慎兵さんに惚れてるんだと思います、俺、あいつの気持ち、わかるなぁ..こうして特別な時にしか会えなくて、そのためにじっと待って待って、ようやく会えたんだもの。」
青年はそこまで言うと、なぜか顔を真っ赤にしてうつ向いた。

 馬たちの交合は、それを見慣れている多恵でさえ何か感じ入るものがあった。
「..私、あんな慎兵の様子、初めて見ます。」
「なんか、心が暖かくなりますね..人も、あんな風に思い合えたらどんなにいいだろう。」
「そうですね..私も、一途に想ってくれる人とあんな風になら愛し合ってもいい」
それはごく自然に多恵が思った感想だった。青年はそんな多恵の横顔をじっと見ていた。
青年と多恵の目が合った。が、二人とも同時に恥ずかしそうに目を外らせ、後はそそくさとそれぞれの馬の世話へと散るのだった。





 「まったく、父さんたら..ねぇ、慎兵、馬の世話ばかりに明け暮れてないで、そろそろ今年中には嫁に行け、だって。..あんまりよねぇ。」
慎兵はあいづちを打つようにブルルと鼻を鳴らす。
「私はまだまだ、慎兵、お前のそばを離れるわけにいかないわ。お嫁にだなんて..どうせ会ったこともないような人のところへ適当に縁付けられるんだわ、そんなのイヤだわ。..お前と白菊さんのように運命的に結ばれて、心底好き合って一緒になるならまだしも..。」
多恵の脳裏をふと、青年の面影がよぎった。



 一方、青年は、決心していた。
白菊の最初の仔が順調に賞金を稼いでくれている。これで慎兵との2番目の仔が、新馬戦を勝ってくれたら。
「親父、俺、一緒になりたい娘がいるんだ。」
名馬、風馬慎兵の二番仔が勝ってくれた時には。
青年は多恵の清楚な顔を思い浮かべた。





 白菊と慎兵との2番目の仔は、期待通りに新馬戦を勝った。
青年に求婚され、多恵が断わる筈もなかった。だが。
「どうしたの、多恵さん。」
許嫁になった青年が、気遣わしげに声をかける。婚礼の日までは、それぞれが自分の馬の世話に明け暮れる中、それでも、祝言の打ち合わせや何かで、青年はできるだけ多恵に会いに来るようにしている。
今日も、多恵のいる厩へやって来たが、多恵の沈んだ様子を見て驚いて駆け寄って来たのだ。
「私..慎兵と離れたくない..」
「そんな..」
嫁に来る以上仕方がないのだと言いかけて、青年は口をつぐんだ。確かに、自分だって白菊や他の馬たちを置いて見も知らぬ土地に一人で行け、と言われたら、嫌だ。自分の一部のようにして気遣い世話をして来た馬たちと、どうして離れられるだろう。
「多恵さん。..気持ちはわかるよ。俺も、白菊と引き離されたら、きっと悲しいと思う。..だけど..多恵さんが悲しさを忘れられるよう、俺、精一杯働いて、きっと多恵さんを幸せにするから..白菊の仔も..多恵さん、慎兵さんの血をひいた仔が、うちにはいるから、だから、..」
口ごもりながら一所懸命に話す青年の様子を見るうち、多恵の顔に笑みが戻って来た。
「ありがとう..ふふ、あのね、私いい事思いつきました。だからもう大丈夫。」
「えっ。」
「ねぇ、必ずまた、白菊さんを慎兵のところへ連れて来ましょうよ。強い馬をたくさん育てて、もっともっと、他の牝馬にも。慎兵の血を受け継いで強い仔をたくさん産んでもらうために、私、うんと働くわ。そうしたら、慎兵に会える。」
「あっ、そうか。今度は多恵さんが白菊を連れて来ればいいんだ。」
「そうよ。」
「..白菊の種付けの日は、俺も、..多恵さん、あんたに会える待ち遠しい日だったんだよ。」
「私、ちっとも気付かなかったわ..」
「いいんだ、真剣に慎兵さんの様子だけを見ている多恵さんの様子が、俺には頼もしかったんだ、その、..こんなに馬を大切にしてくれる人なら、きっといい嫁ごになってくれる、って..。」

 いじらしい様子の恋人たちを尻目に、慎兵は悠然とかいばをはんでいた。





 月日が流れた。
風馬慎兵の子供たちは、恐ろしいほどの強さであちらこちらの試合で勝ちをおさめ、慎兵の血筋は長きにわたって一世を風靡した。
 山野白菊はその代表格として、強い子供の母、あるいはその娘が産んだ仔の祖母として名牝の名を欲しいままにした。
 多恵の嫁ぎ先は、強い馬の生産地として大いに栄えた。

 名馬、風馬慎兵は「神の馬」と称され、天寿をまっとうし天に召された後は、本当に神になったと伝えられる。









 










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