〜みどろの巻〜

 「いけないっ、もう日が暮れる。」
アヤははっと顔を上げ、一目散に走り出した。
 草摘みをしながら物思いにふけっていて、気が付くともうこんなに時が経っている。
「なんでこんなにすぐ時間さたっちまうべか。」



「そういう時は、みどろ様が来ておるのよ。」
死んだばっさまは、よくそう言っていた。
夢想にふけりがちなアヤの仕事の手が止まるたび、祖母はアヤの手をぴしゃりと叩いてよく言ったものだ。
「ほれ、ほれ、みどろ様に魂を取られるでないよ。仕事をおし。ままが食えねば命も取られる。」



 「アヤーっ、また遅くなってこの馬鹿たれが!早く来て火を見ないかっ。」
母親が遠くからどなる。アヤは、半分も満たなかった草のかごを土間に放り出すと、大急ぎでかまどの前にしゃがむ。一番下の妹が、奥の部屋でギャアギャアと泣いている。
 暮らし向きは、あの頃も今も楽ではない。



 「なぁ、おっかぁ。おっかぁも、みどろ様が来たことあるのが?」
その夜、摘んできた薬草を炉端に積んで乾かしながら、アヤは母親に訊くともなしに話しかけていた。
「んだらこと考えてばかりで、なんて馬鹿な子だねっ。はよう全部片づけて寝ぇ。」
怒気を含んだ声に、しまった、とアヤは首をすくめ、黙って手を早める。

 もう夜も更けた。たった一人で畑を切り盛りする母は、昼間の疲れか、大いびきをかいて寝てしまった。
「さぁ、寝よ寝よっと。..おやすみなさい、いろりの神様。おやすみなさい..」
アヤは想像の中の様々な神様に小さく挨拶をして、囲炉裏の火に灰をかけて寝仕舞いをし、妹たちの体を足でのけ、その間に体を割り込ませて寝る。

「ばっさまは、天国でどうしていなさるか..」
アヤに寝物語をしてくれた祖母も死んで久しい。
「神様、ばっさま、..おどうが無事帰ってくるよう力を貸してください。」
 父がいくさに取られてからは、いつもそう祈って眠るのが習慣だ。





 ある日の昼前に、ようやく父が、兵役を終えて帰って来た。
「おどうだぁっ」
「おどう、お帰り」
子供らが駆け寄る。
「おう、みんな、大ぎぐなった、アヤ、よぐ子守りしてくれたな。」
「おどうお帰り。
 あんな、おっかぁは畑だ、わだは昼飯作ってっから、おどうは畑さ行ってな。」
父はそう聞くとうれしそうに、くしゃくしゃっ、と笑うと、荷物を放り出すのももどかしげに、畑へ走ってゆく。
すぐ下の妹のスズが、アヤの袖を引っ張って不思議そうに訊く。
「なぁ、姉さ、なしておっかぁを家さ呼び戻さん? おどう疲れてるだろうになして畑さ行く。」
「いいんだ、いいんだよスズ。じき二人して戻って来っから。」
そっかスズ、おめさはこの前のいくさの時は赤ん坊だったもんなぁ、とアヤは一人ごちる。
「みどろ様がな、おどうとおっかぁとに、今まで取った時間を返してるだよ。」





「それでもなぁ、みどろ様は、ただ時間を奪い取るだけではねえんだ。」
「ええっ、ばっさまどういうこと?」
「まばたきするくれえの短け間を、一日にも引き伸ばして下さる事だって、あるだ。」
アヤには信じられなかった。
「どういう時に、そうなるの?」
「そうさなぁ、わしがまだ若かった頃、じぃさまと惚れ合うていた時、そうなったさね。」
「ふぅん..」
「アヤにはまんだ、わがらねえな。」
祖母はその時、遠くを見ながら何故かとても懐かしそうに笑っていた。





「なぁ、おどう。」
「ん、なんだ。」
畑仕事の合間に、アヤは父に訊いてみる。
「おどうな、みどろ様っていると思うだべか。」
母は父が帰ってからすっかり上機嫌で、鼻歌を歌いながら向こうの畝を耕している。
「あぁ、みどろ様か..ばばがよく言っておった...うんだな、うん、いるいる。」
「なんでわかる?」
仕事の手を休めず、額の汗を首を振って落としながら、父は話す。
「あんな、おどうはいくさでな、何度も鉄砲の玉さ当たりそうになったことあんだ。」
「ええっ」
「こら、おっかぁに聞こえだらまーた心配する、静かに聞け。」
「う、うん..」
「あんな、おどうにはそん時、まばたきするぐれえの時間がな、うんとうんと長ぐ感じられただ。」
ばっさまの話と同じだ、とアヤはうなずく。
「あんな、餓鬼ん頃あった事とか、おっかぁに初めて会った時とかな、おどうが生まれてがらあった事ぜーんぶな、こう、パーッと頭ん中駆け巡ってな。」
「....」
背中で妹がむずかりそうになるのを無意識に揺すってあやしながら、アヤは固唾を呑んで聞いている。

「それが全部終わった時な、あぁおれ、死ぬるんかな、って思ってな、...それでもな、まーだ鉄砲の玉さこっちに届かねんだ。
 それでな、ひょっとしたら、って思って、エイってな、こう、地面さ伏せてみだらよ、」
「うん、うん、そしたら。」
「鉄砲の玉さ、頭の上通り過ぎてやんの。」
「ええっ..」
しばらく目を白黒させていたアヤだったが、父のにんまりした笑顔に出会うと、可笑しそうに笑い始めた。
「あぁ良かった。おどう、良かったねぇ。」
「うん、うん、良がったよ。」

急に笑い出した父娘に、母が何事かと振り返る。
「おどう、おどうはみどろ様に救けられたんだねきっと。」
「そうかも知んね、おれよぐわからんが。」
父とアヤは、何だか妙にうれしくなっていつまでもクスクス笑いを止める事ができなかった。





「みどろ様は、きれぇな女の神様だったなぁ。見たな、おめぇも。
あんなぁ、みどろ様は、おめぇさみてな子っこや、忙しくて首も回んね女や、とにかく若くて、イキのいい人間さ好きなんね。
 本当は自分も一緒に働きたいんね。で、悪気ねぇんだが、その人間の時間さ取っちまう。いくらも仕事してねぇのにあっと言う間に日が暮れちまう時がそれさね。」

目をまん丸にして話に聞き入る孫娘に、語って聞かせているのは、かつての祖母ほどにも老いたアヤだ。

 昨日アヤと孫娘は、都の近くから遠縁を伝ってはるばる嫁に来たという、近所の嫁ごに、神様たちの絵姿をいろいろ見せてもらったばかりだ。

「ばっさま、またつまらん事子供らに吹き込んで..いらん物思いして仕事せんようになるだろが。」
嫁の機嫌がそろそろ悪くなる頃だ。アヤは首をすくめ、声を小さくして孫に言う。
「続きはまた、おっかぁが寝てからな。だがな、これだけは今付け足しておかんとな。」
「なぁに、ばっさま」
「あのな、みどろ様は、それだけじゃないんじゃ。
取るばっかじゃ悪ぃってな、人の一生のうち何度かはな、取った時間をまとめて返して下さる。
 それは、短くてもな、特別な、いい時間になるんさ。」
「それはいつ返ってくるの?」
「今度な。...そうな、」
アヤはちょっと言葉を切り、にっこりとして言った。

「おめぇのおどうが帰って来たらな、おどうと、おっかぁとにな、返って来るさ。」









 










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