最初にみなさんに謝っておきます。どうしても書いてみたかったんです、すいません。この話のサブタイトルは「宮沢賢治に捧ぐ」です..


〜伝記になった人の妹の巻〜

 その頃、冷夏はしょっちゅうで、農民の生活を苦しめた。
飢饉の夏、愚図子の両親は、街へ行ってお金を稼いでくる、と言って家を出たきり、二度と戻らなかった。
その年も冬になろうとする頃、一つ上の兄と二人きりで家に残され、寒さに震えていた愚図子を、「暖かい食べ物をやる」と言って連れ出した男がいた。
人さらいだった。
自分を追って走り出た兄が男に殴り飛ばされる様を見ながら、愚図子は泣き叫んでジタバタともがくばかりだった。



 その日から愚図子は、紡ぎ車の前に座らされ、くる日もくる日も、絹糸を紡いだ。
疲れて手を止めるとどなられ、うっかり糸が切れてしまうと容赦なくビンタが飛んだ。「愚図子」という名だって、その時につけられたのだ。

「辛いよぅ。お腹が空いたよぅ。」
広い紡ぎ工場のあちらこちらから、少女たちの泣き声が聞こえる。愚図子も、泣きながら必死で糸をたぐった。涙を拭いている余裕などない。

 夜は、寒さを少しでもしのぐために、少女達は大釜のそばの灰の中に寝た。
「お兄ちゃんどうしてるのかなぁ..」
愚図子は、兄の身が案じられてならない。自分は、粗末ではあっても食事をあてがわれ、こうして凍えずに眠れる。しかしたった一人家に残された兄は、死んでしまったのではないだろうか。

 ごそごそ、ごそごそ、と向こうでひっきりなしに音がする。明日大釜で茹で上げられる繭から、すでに孵ってしまった親蛾たちがかごの中を這い回る音だ。
「ふふ、..おかいこさま。」
よたよたと、蛾が愚図子の目の前まで這って来る。
「おかいこさま、おかいこさま、白ぉい繻子のべべ着て、どこ行きなさる。」
差し伸べた愚図子の指を伝わり、手の上をなおも這ってゆく。
カイコ蛾は目が見えない。物を食べる口もない。飛べない短い羽根、大きな腹を引きずって、ただ、よたよたと歩くだけだ。
「おかいこさま、見えない目ぇして、何探してござる。..向こうのお山へ、婿さがしに。」
唄いながら、蛾の羽根をそっと撫でてやる。すべすべとした、まさしく絹のようなすべらかさだった。



 「おかいこさまは気の毒だねぇ。」
辛い糸紡ぎの間、愚図子は糸に向かって独り言を言っては気を紛らわす。
「婿をとって、子供をたんと産んで、子供らはみんな丸々太って育って、繭作って、やれやれと思ったら大釜の中、グラグラ茹でられちまうんだからねぇ。」
このすべらかな糸を吐き出すために飼われ、茹でられて死んでしまうカイコが、不憫に思われた。
「おかいこさま、おかいこさま、白ぉい繻子のべべ着て、どこ行きなさる..」
茹でられたサナギの独特の臭いも、大釜の蒸気に満ちたむぅっとする空気にも、慣れた。
愚図子は、ひたすら、唄いながら糸を紡いだ。



 愚図子がおマユと会ったのは、ある月夜のことだった。
「お兄ちゃんは、きっと生きている。」
冴えざえとした月を見上げながら、愚図子がつぶやいていた時。
暗闇の向こうから、白い影がゆっくりとこちらにやって来た。
「ねぇ、さっきの歌、また歌ってくれません?」
上等の絹の着物を来た、可愛らしい少女だった。
着ている物といいお姫様のような物腰といい、ここの工場で働いている子ではなさそうだ。街から来た商人の子だろうか。
「えっ..」
「おかいこさま、おかいこさま、..って。今、歌っていたでしょう」
「あ。」
その時、少女が月明かりの下に出た。少女は、盲目だった。

 おマユ、って呼んでね、と少女は言った。
おマユはそれから時々やって来るようになった。愚図子はいつも、おマユにせがまれて自分の作った紡ぎ歌を歌って聞かせた。
仕事が大変な事、意地の悪い見回りの大人たちの事、兄の事。おマユは愚図子の話を何でも聞いて、優しく慰めたり励ましたりしてくれた。

「おマユちゃんは、どうして目が見えなくなっちゃったの?どうして髪が白いの?」
愚図子は思わず訊いてみた事がある。おマユのような優しい娘が、それでは可哀想だと思う。良い所のお嬢さんに違いないのだから、偉いお医者様にかかったてみたらどうだろうか。
だがおマユはあっさりと笑って言った。
「ううん、私ははじめからこうなのよ。何も不自由していないわ。髪の毛も、もとからこういう色なのよ。」
おマユの鏡のように滑らかな、瞳孔の無い瞳が、真っ直ぐに愚図子に向けられている。愚図子は、そんなおマユの大らかな様子を見てホッとし、お節介を詫びた。
「ごめんね、余計な事を言って。」
「ううん、気にしないで。それより、ねぇ、私の髪の毛に触ってみて。」
愚図子はおマユの銀白色の髪を手に取って感嘆の声をあげた。その手触りは、絹糸そのものだった。
「おマユちゃんの髪の毛って絹みたい。とってもきれい。」
「ねぇ、愚図子ちゃん、いつも、おカイコさま、って唄ってくれて、心を込めて糸を紡いでくれて、ありがとうね。」
「..えっ?」

その日おマユの言った言葉の意味は、結局わからずじまいだった。



 そんなある日のこと。
珍しく工場は休みになった。すずめの涙ほどの小遣いをもらって、少女たちは外出を許された。
「お兄ちゃん..」
愚図子は家まで夢中で走った。
あの日、自分の家からどのくらい遠くまで連れて来られたのかわからなかったが、愚図子は道ゆく人に尋ね尋ね、村を探し当てた。
だが。

村は、消えていた。
家々は取り壊され、代りに、そこら中の木々の間に、網が一面に張り渡されていた。
「愚図子じゃねぇか。生きていたのか。」
村でも鼻ツマミ者だった、ごうつくばりのオヤジが、ぬぅっと現れて行く手をさえぎった。
「..お兄ちゃんは?..あの、お兄ちゃんは、いますか?」
「おう、あいつならここで働いてもらってたんだけどよ、なにせちびだから力がねぇし、あんまり街へ行きたいとせがむからよ、商売覚えさすために街へだしてやったよ。」
..兄は、生きている。
それだけわかれば充分だった。愚図子は、きびすを返して走り出した。



 それから何年かして愚図子は年頃の娘になり、職工と所帯を持った。
もう糸を紡ぐ事はなかったが、今でも絹糸の手触りを時々思い出す。
「おい、これ、お前の兄さんじゃないのか?」
新聞を読んでいた夫が、驚いた声をあげて愚図子を呼んだ。
そこには大きく「若き農業博士、飢饉の救世主として犠牲に」とあった。
記事には兄の名前が出ていた。街へ出て、学問を修めた兄は、農民を助け農業の振興に骨を折っていたと風の便りに聞いてはいた。
その兄が、冷夏による飢饉を救うため火山の爆破を計画し、最後のスイッチを押す役目を志願して死んだのだという。
「..お兄ちゃん。」
愚図子には兄の気持ちが痛いほどわかった。もう、冷夏で自分らのような親のない子をこれ以上出したくなかったのだろう。だけど。

「だけど、死ななくったって。」
愚図子は泣きじゃくって家を走り出ていた。走り疲れ泣き疲れて立ち止まると、目の前に、もうずっと会わなかったおマユが立っていた。
「おマユちゃん、お兄ちゃんが、..」
「愚図子ちゃん。お兄さんは天国できっと幸せになるよ。ありがとう。私たちも..山も木々も虫たちも、みんなみんな、お兄さんに感謝しているよ。お兄さんの伝記が書かれて、みんないつまでもお兄さんの事を忘れないよ。泣かないで。お兄さんの分まで生きてね。」
「あ...。」
愚図子が顔を上げた時、そこにはもうおマユの姿はなかった。

ふうわりと、絹のような優しい風が、愚図子の頬を撫でていった。











 自然の動植物の精霊神たちは、決して人間たちを滅ぼそうとは思っていないと思います。むしろ人間たちとの共生をこころよく楽しんでいる面もある事でしょう。カイコの精霊の白虫お真由は、そんな自然物を代表して「ありがとう」と言いに現れたのだと思います。
 ここで「伝記」と言っているのは宮沢賢治著「グスコー・ブドリの伝記」です。興味を持たれた方は是非読んでみてくださいね。引き離された妹の方のお話を、僭越ながら書いてみたかったのです。








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