これは、紅后一族や朱点が生まれるよりずっとずっと前、はるか昔のお話です...。


〜海の守り神の巻〜

 それはまだ、神と人と、地上の森羅万象がまだごく近しかった、太古の昔のことだ。

 「ふぅ。」
若銛は仕掛けをようやく終えると、額の汗をぐいと拭い、天を仰いだ。
照りつける太陽に背中をジリジリと焼かれながらの作業で、さすがに屈強の若い若銛も、へとへとだった。
腰につけた水筒を取り、まずは一口飲んだところで、若銛は誰かに呼ばれたように思い、辺りを見回した。
「...?」
この磯場は仲間の漁師には教えていない、自分一人の漁場だ。いくら見たところでやはり人影などない。さてはそら耳だったかと、もう一口、水筒を傾けたところで、若銛の目に、潮溜まりの中でキラリと光る何かが映った。
「なんだ?」
岩を伝って降り、水面をのぞき込んで若銛は、やれやれ、と失笑した。光る物は、浅瀬に取り残された小さなタコの、目玉が光っていたのだ。
「今夜のおかずにでもするか。」
タコが若銛の手を避け、ゆるゆると逃げる。ぬるい潮溜まりの水はほとんど干上がりかけ、若銛に見つからないでもやがてタコは死んでしまったことだろう。
「ほれよ。逃げたところで、どうせお前さまは死んじまうこったよ。」
衰弱していたタコはあっさりと若銛の手に落ちた。
「汁に入れて煮るか、干しダコにするか。」
若銛は岩に腰を下ろすと、ひと休みも兼ねて、タコをじっくりと眺め始めた。
「ほう..。」
よく見ると、タコのぬめる肌はキラキラと日の光を反射し、サンゴのような色合いがなかなか美しい。
水から引き上げられ人の手につかまれて、タコは弱々しくのたうった。その様子が心なしか、脚を擦り合わせ(助けて、助けて..)と一心に頼んでいるようにも見える。
それを見るうち、若銛もだんだんこのタコが可哀想になってきた。
「まだ干物もたくさんあるしな。...お前さまを殺さんでも俺は飢え死にしないよ。」
そう語りかけると、若銛は笑いながらあっさりと、タコを外海へ、ぽん、と放り投げた。



 若銛は、焼津の村でもなかなか評判の良い漁師だったし、精悍な容姿の若者だったので、嫁取りには不自由しないだろうと思われていた。だが、いかんせん辺鄙な岬の向こうにただ一人住んで久しいので、なかなか年頃の娘と知り合う機会もない。仲間の漁師たちと組んで船を出す時など、嫁の話になるのだが、どういう偶然か、年頃の娘を持つ者は仲間の漁師にはいなかった。
「若銛よう。おめぇ、色街に誘っても一緒に行こうとしねぇし、女に興味がないのか?」
「いんやぁ、女房は欲しいんだけんどもよ、なんだか、毎日網の手入れして船出して、忙しくしてるうちに日が経っちまってよぅ。」
「おめえみてぇな働き者の漁師の女房になる女は、果報者よ。」
「そうかなぁ。だが、なり手が見つからねぇんだからしょうがねぇよ、ははは...。」
網元が心配して、遠く離れた隣村から嫁を取ったらどうかと薦めるのだが、若銛はその話をのらりくらりとかわしてしまう。一日たりとも自分の漁場を離れるのは気がかりだし、それに、全く会ったこともない人々の所へ出かけて行くとなると気が重く、ついおっくうになってしまうのだ。



 その若銛が、女と暮らし始めた。
一人で船を出していた夜に、「海で拾った」のだと言う。
「で、一体どこの娘さんなんだい。」
「それが、何も覚えていないんだとよ。」
ここらを航海する交易船など滅多にないが、結局、難破し流れ着いたのだろうという事で、皆は納得する事にした。

若銛は女房をもらって前にも増してよく働くようになった。村の誰も見たことのないほど見事な鯛を取ってきたり、一人ではとうてい引き上げる事もかなわぬほど大物のカジキを揚げて来た時には、村中の人間がこぞって見物に集まったほどだった。
こうなってくると、若銛をねたむ者も出てくる。

「しかしよぅ、若銛も変わり者なら女房も変わり者だよなぁ。村の井戸に洗濯にも来ねぇし、買い物も若銛が相変わらず来てるって話じゃねぇか。」
「そりゃおめえ、どこの馬の骨とも知れない女なんだろ、もしかしたらどこかの村を追放されたはぐれ者で、顔見られるとまずい事情があるのかも知れねえしよ。」
「網元の所にも顔見せに行ってねぇって話だしよ、...いっちょ見てやっか。」
「そうだそうだ。あんな変わり者の嫁になろうってんだ、バケものみてぇなご面相かもしれねぇ。」
いつも漁に出ている若銛は、女房がこんな札付きのさもしい連中の好奇心の対象にされていることなど知るよしもない。
連中は、その夜、若銛の家へ忍んで行く相談をまとめ、三々五々散って行った。



 「よし、若銛のダンナの船は行ったな?」
「あぁ、船影がずいぶん小さくなった。もう陸に戻ろうったってだいぶかかるわな。」
後ろめたいのか、それとも網元に告げ口でもされるとまずいと思ってか、頬かむりをして顔を隠した連中は、こっそりと若銛の家に近づいて行った。

「どうだ、見えるか?」
「あぁ、湯に入っておいでだぜ、女房どのは。」
「どれどれ、..」
湯をのぞいた男のあごがだらしなく落ちた。
「なんだ、どうした、俺にも見せろ。」
最初にのぞいた男を押しのけて、次にのぞいた男も途端にやにさがる。
「すっげえ、べっぴんじゃねぇか。」
「たまんねぇ体してやがる..」
「...おい..。」
誰からともなく、男たちはうなずき合っていた。もともとが卑劣な連中である。人の女房に劣情を催したところで良心がとがめるわけもなく、実際悪事に及んだことも一度や二度ではなかった。
「若銛には身寄りがねぇ。女房を犯されても怒って出てくる実家はねえし、網元に泣きついたところで、網元だって、ゴタゴタを起こしてくれるな、泣き寝入りしてくれ、と言うに違ぇねえんだ。」
「そうだ、そうだ。」
「こんな上玉、いただかないで帰るわけにいかねぇよ。」

女は、気丈に抵抗した。
「おとなしくしてりゃ怪我させねぇよ、観念しな。」
「泣こうがわめこうが、若銛は海の上だ、あきらめろ」
暴れる女の手足を押さえつけると、白い肌がぬめるようだった。その感触が、男たちの獣欲をいっそう煽った。
「いやだ。あたいは若銛にしか抱かれない。げすどもめ、下がれっ。」
女が初めて口を開いた。
憤然と吐き捨てるように言う様子には、何か人を従えて来たような雰囲気があった。
が、男衆がひるんだのは一瞬だった。
改めて見ると、思った以上に成熟した体といい、背中一面に彫られた大蛸の入墨といい、どうもわけありの女のようだ。こういう女なら遊び慣れているのではないのか。漁師のうぶな若妻を手込めにするつもりが、これは思った以上にいい目が見られそうだ。
男衆は自分たちに都合の良いように解釈してまた、女の体に触れ始める。
「おうおう、怒れ怒れ。怒る顔がまた色っぽいねぇ。」
「おめえ、そんな彫り物して、流れ者じゃねえか? 若銛が初めての男じゃねえだろう」
「だったらいいじゃねぇか」
「若銛なんぞじゃ食い足りねぇだろう?..こんないい体してるんじゃ、たまには違う男が欲しかろう」
口々に言いながら、なおも抵抗しようとあがく女を押さえつけてゆく。
 女は終始泣き声の一つもあげなかった。



「...いい女だったな、..なんか、吸いつかれるみてえだったな」
「おう、だからタコの彫り物してるのよ」
「ありゃぁ魔性の女だなぁ、男の精を吸い尽くして生きてきた、って感じだな」
「若銛もいい拾い物をしたというか..体がもたんだろうよ、ははは」
「..あの女...。」
なぶりものにした若銛の女房をそのまま家に打ち捨てて村に帰る道すがら、すっかりやに下がって上機嫌の中で一人が、ふと考え込む表情になった。
「なんだい。久々の上玉堪能して何を難しい顔してる」
「あの女、最後に『遊びじゃすまないわよ』って言ったな。」
「なんだよ、気にしてんのか?今さら、行って、ごめんなさい、とでも言うか?」
「身寄りのない流れ者の女が何ができるってんだ、誰にこんな目にあわされたか若銛に言おうにも村に知り合いもいないし、俺たちが誰だかわかるわけないんだから、泣き寝入りよ。」
「ほとぼりが冷めた頃また夜這いに行ってやろうぜ」
「そうだな。色街の女なんかかすんじまう..。うぅっ、またご馳走になりたくなってきた。」



 若銛が翌朝家に戻ると、女房の姿はなかった。
「お墨。どこだ、お墨。..何があったんだ?...まさか。」
敷かれた夜具が乱され、室内の荒らされた様子に、若銛もお墨がどんな仕打ちにあったか、嫌でも想像がついた。若銛がその事実に愕然とした時。
その時、若銛は外を吹き荒れる風の音に気付いた。
まるで、若銛が陸に上がるのを見届けたように、海が荒れ始めたのだ。

「もしや...。」
なぜか若銛は、予感がして、しけの海に向かい合う岬の突端に走った。
「お墨。..お墨。...お前なのか?」
思えば、お墨という名を告げただけで、女房は自分の素性を語ろうとしなかった。愛し合い、しおらしい女房ぶりで尽くしてくれたお墨だが、心のどこかで若銛は、これがお墨の本当の姿ではないように思っていた。
お墨の背中の彫り物の事は気にならなかったし、お墨が話す気になるまでは自分からは訊くまいとしていたが、ある夜、冗談半分で若銛はお墨に、お前は人ではなくてタコなのだろう訊いてみたことがある。
「ええ、そうよ、あなた。」
お墨は吸いつくような柔らかな腕を若銛の背に絡めながら、こともなげにそう答えた。
「私は、あのとき助けていただいた、タコです。」
その時はそんな馬鹿な、と気にも止めず、お墨にねだられるまま愛の営みにのめり込んでいって、その話はそれきりになっていたのだが...。
(あなた..私の、若銛さま..。)
大荒れの海原の暴風に混じって、お墨の声がしたように若銛は思った。
「お墨、戻って来い。お前がタコの化身でもいいんだ、俺は、お前にそばにいて欲しい。」
(いいえ。私はもう、戻れない...。人間たちの卑劣さを許せないから。)
「お墨...。」
若銛の見る前で海面が信じられない高さに盛り上がり、大波が立ち上がった。そのまま村を直撃するつもりだ。
「やめてくれ。村には罪もない人々だっている。」
いらえはなかったが、たじろぐ気配があった。
「お墨、お願いだ、待ってくれ。」
若銛は浜へ走っていた。
大しけの中、波に呑まれそうになりながら、必死で船を守ろうと奔走する人々がいた。
若銛も人々に混じって懸命に働く。自分が浜にいるうちは、お墨は津波を寄越さないだろう。

船の避難がおおよそ終わると、若銛は自分の船を海へ出した。
「あっ、若銛、気でも狂ったか。」
「若銛さん、無茶だよぅ。」
皆が止める声も聞かず、沖へ一直線に漕ぎ出す。
「お墨、お墨ーっ、聞いてくれ。」
若銛は波に向かいありったけの声で叫ぶ。
「お前には本当に済まない事をした。みんな俺のせいだ。俺がお前を守り切れなかったからだ。だから、お墨、腹を立てるなら俺の命を取れ。俺は、お前に殺されるなら本望だ。お墨、..愛してる。」



 しけが止んだ時、若銛の船影はどこにもなかった。
「若銛がよ、大蛸様の怒りを鎮めてくれたんだよ..」
一緒に悪事を働いた仲間たちが皆、大風に飛ばされた石に頭を潰されて死んでいたのを見て、残った一人は、泣きながら悪事を白状した。

村の者は皆、若銛の死を悼み、泣いた。
「若銛さんは、きっと神様になったんだ..。」



そうして、焼津ノ若銛と大蛸の化身、八手ノお墨とは、海の守り神として永く奉られた。


















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