ザンジバル革命(1964.1.12)以後の政治状況


タンザニアという国はTanganykaと呼ばれる本土とZanzibarと呼ばれる島嶼部が、それぞれの独立の後に、1964年4月27日合邦し、Tanzaniaという一つの国を形成した。
合邦以前も互いに交流はあったが、その文化は相当違いがあり別の文化圏と見た方が妥当である。具体的には、ザンジバルは95%の住民がイスラム教徒であるし、本土ではキリスト教30%、イスラム教30%、その他40%といわれている。

スルタンを追放した1964年1月12日の革命以後、カルメ=Karume大統領を中心とするザンジバル革命評議会(ZRC)が権力を持ち、非常に少数の人によって政策決定がなされていた。実際に、それが効果的に行われたかどうかは別にして、タンザニア本土では民主主義的方法と、人々の必要と願望に答えるように政治を行うことを、優先していた。しかし、ザンジバルの状況は全く違っていた。アフリカ人・シラジ*人党(ASP)及び大統領に就任したカルメは民主主義には関心がなかった。例えば、彼は50年の間ザンジバルには選挙がないだろうし、彼が生きている間は行われないだろうと、宣言した。
カルメ大統領たちの選挙に対する不信は故なきことではなかった。独立前の1963年に行われた選挙において、ASP党は得票数では、敵対するアラブ系2政党よりも多く獲得したが、議席数ではそれらの政党よりも少数しか得ることが出来なかった。そして、1964年1月12日の反乱ののち、カルメは大統領になり、ASPはともに革命を戦った少数ながら政治的に鍛錬されたウンマ(大衆)党を併合し、ザンジバルとペンバ島で唯一の政治組織となった。そののち64年4月27日、タンガニーカとザンジバルは合邦し、タンザニア連合共和国を形成した。この合邦により、ザンジバルの指導者としてカルメは連合政府の第一副大統領となった。
タンザニア連合共和国のニエレレ=Nyerere大統領は、ザンジバルの政策に関与できたが、不快感を感じさせるとき、やっかいなことを起こしたとき、本土に対して全く敵対するときでさえ、滅多に干渉しなかった。カルメの元では色々な場合、それらはほっておかれた。多くの人々が本土にとってその合邦がどういう意味があるのか? といぶかしがるくらい、合邦後もザンジバルは自律性を保った。その理由は、ニエレレ大統領がアフリカは一つ(Pan Africanism)という理想の可能性を、ザンジバルとの合邦に見ていたからだろう。しかし、それよりも当時中国もソ連もザンジバルに興味を示しており、そのどちらかがザンジバルに覇権を確立したならば、タンザニア本土の問題にも介入してくるだろうことを、ニエレレは恐れたのだ。連邦は、それに前もって対処したのだ。
だから、カルメの支配下ではザンジバルは本土との関係に気を配れば、自由に振る舞えたし、連邦から得るものはたくさんあり、支払うものは最小限だったわけである。ザンジバルでの歳入は自由に使うことが出来、またその支払いを要望されていたにもかかわらず、ザンジバルの公務員、警察、軍隊の支出は連合政府によって払われた。これらの支出は、連合政府であることを示すものであったが、合邦時に認めらわれた例外的なことには拘束されるものではなかった(これらの支出はザンジバル独自の領域であると考えられた)。その(ザンジバル独自の領域ではない)例外的なこととは、 憲法、外交、国防、警察、国籍・出入国管理、貿易及び海外からの借款、関税等の税金、通貨管理、鉱物資源、中央銀行、特許権、高等教育、郵便、港湾等の領域である。しかし、実際的には、これらの領域でもザンジバルは独自に運用していた部分があった。
アルーシャ宣言(1967.2=タンザニアの社会主義の道を決定した重要な宣言)については、両国間で綿密な打ち合わせが行われたと言われている。しかし、ザンジバルではそこで発布された指導者の倫理基準を遵守しようとする動きは起きなかった。かえってザンジバル革命評議会(ZRC)は メンバーの何人かが6軒の家を所有していることを隠そうとした。しかし、本土では役人が自分が住む以外の家を所有することは禁じられていた。明らかに、ザンジバルの指導者は汚職に関係していたから、島民の間には不満がくすぶっていた。
カルメの元での政治には、彼のパラノイアが反映されていた。彼らは、異なった民族間や、外国の利益によって支配された政府を転覆させて、権力を握ったので、陰謀や転覆の兆候を見るに敏であった。しかし、しばしば転覆活動の取り締まりは、自分たちに敵対するグループへの弾圧でしかなかった。1968年コモロ諸島出身者は、彼らがザンジバルやアフリカ人のコミュニティーへの帰属よりも、自分たち自身のそれに帰属し続けることを選んだ、そのことでZRCと衝突した。1970年には、21のシラジ*系住民を表向きには発展を阻害し、人民と協力することを拒否したということで国外に追放しようとした。また、1971年には5人のアラブ人と4人のアフリカ人が政府を転覆するつもりで入国しようとしたと言って拘束された。彼らは、全て死刑の判決を受けたうえ、公開で処刑された。しかし実際にはアラブ人だけが処刑され、そのやり方は残忍だったという。これらのアラブ人やコモロ人がウンマ(大衆)党と関係していたかは、はっきりしてい ない。ウンマ党は、カルメのアフロ・シラジ*(アフリカ人・シラジ人)党(ASP)と、ともに革命を成就し、その後ASPに併合されていた。また、メンバーの何人かは、カルメに対して批判勢力であり、連合政府の大臣としてザンジバルから体のいい追放を受けていた。
1971年民族的相違は少なくとも政府転覆と密接な関係を持っていると、カルメは発表した。ニエレレの考えに真っ向から対立するように、カルメはタンザニアは黒いアフリカ人のための国であって、それ以外の者の国ではないと語った。片親が黒人であればまだタンザニア人だが、それ以上に黒人の血が薄ければタンザニア人ではない。このカルメの反対勢力への恐れは故なきものではなかった。なぜならば彼の流血をも恐れない政策は、多くの島民に支持されていなかった。
1972年4月にカルメは暗殺された。
実際に暗殺した人間は個人的な動機があったが、彼を補助した4人は思想的な背景があった。この暗殺を陰で仕組んだのは アブドゥル・ラフマン・モハメッド(バブー=Babu)ではないかと考えられている。バブーは大臣であり、ウンマ党きっての理論家であった。結局81人が国家反逆罪で捕らえられた。バブーと21人は本土に在住していたので、本土政府によって拘束された。彼らは拷問にかけられ、情報を収集された。彼らは、アラブ、コモロ、シラジ*人であり、多くはアラブ人だった。 また何人かは、民族的には混合であった。10人は、1962年バブーによってキューバでゲリラ訓練を受けたもので、何人かはバブーと関係を持っていた。他の軍人はウンマ党での上級党員だった。6人は海軍の準士官だといわれている。全ての今挙げた民族グループはカルメによって、ウンマ党のように過去に迫害されている。本土の拘留者の返還をザンジバル政府は求めた。1968年に起こった同じような事件では、ニエレレは彼らを返還したが、彼らは裁判にかけられることなく処刑された。だからニエレレはザンジバルの新しい指導者が、バブーと残りの拘束者の公的な裁判と、弁護人をつけることを認めない限り、彼らの返還を拒否した。
1973年の5月に裁判が始まり、1974年に判決が下った。政府の訴訟によるとバブーはザンジバルに科学的社会主義を紹介したすぐれた指導者であった。 この告訴の意味ははっきりしなかった。81人のうち、23人は無罪になり、15人は懲役になり、9人は抗告し、34人、そのうちの14人は本土にいたのだけど、有罪になった。有罪になった34人は全て、死刑を言い渡された。そのうちの9人はザンジバル政府に協力したので、許されると言う話もあったのであるが。1972年12月ASPはカルメの暗殺で有罪になった者の公開処刑を決めていた。本土に拘束された者は1978年の初頭にも監獄にいた。彼らは、そこに留まることで予防的に拘置され続けることを期待されていた。何故ならニエレレは彼らをザンジバルに戻さなかったのだから。ザンジバルの眼があるから、多分ニエレレは彼らを単独で本土の裁判にかけることもできなかったのだろう。
1975年判決に変化が起こった。死刑判決の何人かも、ザンジバルの最高裁で無罪になった。しかし、12人はいぜん死刑のままであった。彼らは、抗告し、また大統領に恩赦を求めることが出来た。
カルメの暗殺とその結果は、つまり1972年から75年にかけては、1967年から77年にかけての10年の中での最も劇的な出来事だった。そのことは、暴政を取りやめ、暴力的な政治から脱皮し、本土政府との協調を基本とするザンジバル政府への礎を作った。
カルメの暗殺後、アボウド・ジュンベ=Aboud Jumbeがザンジバル大統領になった。1965年の暫定憲法によりジュンベはタンザニアの第一副大統領になった。カルメの暗殺の後で、ジュンベはカルメの施政を受け継ぐと発言したが、1972年の後半でさえも、その相違ははっきりしていた。学校でのコーラン教育を許したり、73年のインド訪問がその相違を表していた。その新しい基準は今まで迫害されてきたアラブ、アジア系少数派への待遇改善のメッセージとなった。 またジュンベは革命評議会(ZRC)よりもASP(アフロ・シラジ*党)をザンジバルの政治の中心に据えた。 ASPは彼の支配下にあったが、革命評議会は未だ、なきカルメの影響下にあったと報告されている。これは1972年8月ジュンベが各省はASPの省になり、革命評議会の管理は届かなくなることを宣言したとき、はっきりした。タンザニアではこの変化はたくさんの人が意志決定のプロセスに参加することを意味した。というのは、今までは32人の革命評議員のみにそれが許されていたからだ。一方ジュンベは党内の支配も固めた。1972年のASP党会議では、革命以前の政治パーティのメンバーが、ASPの指導者や、政府の指導者になることを禁じた。ASPの党員になることも禁じられた。また、ASP政策に反対する者は、党の防衛、警察、 警備局で働くことを禁止された。ASPの支局は増えていった。1975年の11月のASP党大会で、ジュンベの支配が確定された。彼は国家行政委員会=the National Executive Committee(NEC)の3/4の支持がある間は権力を握っていられるだろう。 ジュンベはザンジバル内での汚職を減らすために努力した。本土ではアルーシャ宣言以来遵守されていた政治倫理の基準を、ザンジバルでも遵守するようにした。彼のこれらの問題への取り組みは、本土との結束を強めていったが、1977年の終わりまではそれがどの程度成功しているのかは、はっきりしなかった。ジュンベはカルメに比べて、タンザニアの副大統領であるという点に重点を置いた。つまりカルメはザンジバル外のことには関心がなかったが、ジュンベはザンジバルを代表してというよりも、タンザニアを代表してアフリカ各国を訪問することが多かった。またカルメよりもずっとタンザニア全体について、協力的になろうとして、個人的にニエレレとの親交を深めた。本土に対する論評もタンザニア全体の見地で行った。また、カルメが乗り気ではなかった、本土の友党タンガニーカ・アフリカ人・民族同盟(TANU)との合併の支持を訴えるために農村をよく訪れた。

*シラジ人、シラジ系住民について
ザンジバルには紀元後すぐぐらいから、偏西風や海流を利用してインド、アラブから多くの人々が漂流や自発的にたどり着いていた。これはその後、貿易という形に発展する。その中で、神話化されたのがペルシャのシラジ国からの漂流者(一人の漂流した王子が現存するザンジバルのシラジ系住民の祖先)であり、何故か彼らたちだけは他の民族とは違い、混血を重ねつつも、その純血性を保ったとされている。つまり混血が進み肉体的(例えば皮膚の色)にはシラジつまりアラブ的な要素が見られないのに、自分たちはシラジの末裔だと信じているグループが存在する。これは、神話的ではあるが風習的にはシラジ的な物が確実に残存しており微妙である。一説では、オマーンのスルタンの黒人イスラム教徒への蔑視に対抗するための、潜在的な対抗意識がこの神話を形成したのではないかといわれている(黒人であっても我々はペルシャの末裔の正統なイスラム教徒であるという意識)。
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