第5号(24カ月目)隊員報告書

1994年11月24日提出
荒井真一
タンザニア国派遣・H4年2次隊
職種・美術(94年7月/12月分)
配属先・住所 Nyumba ya Sanaa Zanzibar(Art Institute of Zanzibar)
c/o Wizara ya H.U.U.V.
P.O.Box456,Zanzibar,Tanzania

1.最終報告

実施計画からみた達成度等実践活動のまとめ
赴任後、現場の状況が大体分かってきたころに私自身が計画したことは
1*スタッフの美術家としての技術の向上を図る。特に木版画、そして出来れば銅版画、油彩等。
2*日本からの本邦購送に頼らないで現地で手に入る材料で制作を続けていけるようになること。
3*土産物製作については当然重要ではあるが、一方で作品と言える作品を作り、行く行くは諸外国でも認められる作家になるように基礎的な美術史、現代美術の状況、美術とは何かといった哲学的問題についても教授していくこと。 の三点であった。
そして実際に活動していく中で、配属先の局には美術行政及び商店経営について有能な人材がおらず、結局自分及び同僚の大久保隊員が授業という枠を超えて、その問題に頭を悩ませることになった。この段階で現在頼りになるのは実際制作し、それをなるべく売りたいと考えている現場の作家(スタッフ)であることが分かった。しかし彼らは熱意はあっても局の方からは最下級公務員として、不当に軽くあしらわれ、まだ若い(22-24歳)ので商店経営(金銭の管理、店のディスプレイ、広告・宣伝活動の重要性と仕方、市場調査等)については全く知らなかった。そこで
4*スタッフの作家自体がNyumba ya Sanaa(本店)とThe Palace Museum(支店)等の経営を行っていけるようになること、そしてその成果を示すことで局内部での彼らの発言力を高めること。 が加わった。
1*については油彩については基本的な面、銅版画については少々に止まった。理由はそれ以上教えても、今後その技術を継続して使っていけないと判断したからである(材料[油絵の具]がほとんどない上に価格があまりに高いこと、銅版画については銅版画用紙、インク、そして銅の購入すらも難しかった)。そこで木版画を集中的に取り扱った。
2*この点については、ほぼ達成できた。つまり紙、インク、版木を初めてザンジバルでまかなえるようになったのである。特に版木については"ドリアンの木"を見つけられたのは本当によかった。問題点は彫刻刀で、これは4-5年は使用に耐えるものであるが消耗品に変わりなく、不安材料である(ケニヤに局またはスタッフが注文出来る金銭的な力が出来れば問題ないし、現地の鍛冶屋さんに特注する方法もないではない)。
3*私の任務及び使命とも思って取り組んだ。私自身日本では売れない「現代美術作家」だったわけだから、私はこの国で仲間を作りたかった。同じ美術の話で盛り上がり、お互いに意見を戦わせるような。だから、私自身力を入れたし、一番仕事もしやすかった。初めはいかに小銭を稼いで生活の足しにするかだけを考えていた彼らも、今ではザンジバル以外にも世界はあり、彼らと同じような作家がそれぞれ、しのぎを削っていることを知った。そのために写真(雑誌、カタログ等)を通して世界の多くの作家の作品に親しんでいった。とくAfrican American (アフリカ系アメリカ人)の作家(デイッビッド・ハモンズ、ミッシェル・バスキア、キース・ヘリング等)について講義し、討論したときのことが強く印象に残っている。African Americanの作家はなかなか作品発表の機会を得られず、アメリカの美術のメインストリームには入れないのだが、その理由の社会的考察、そして彼らがその条件をいかに転換して、逆にそれを武器にしていったかを話し合ったのだ。そして彼等のBlack=Africanとしてのアイデンティティへの言及の強さ、そして、ザンジバルの若者も大好きなレゲエミュージックについても話し合った。いつのまにかベトナム戦争のこと、マルコムXのこと、モハメッド・アリのことなどにも話が弾んだ。彼等のそれらへの反応はぼくにはとても新鮮なものだった。
4*については、はっきり言って、今任期を終えることに戸惑いを感じる。先日もスタッフが家に来て今後のことについての不安を語った。局(配属先)は協力隊員がいなくなったら、自分たちの都合のいいように運営し(作家のことは考慮しないで)、ついには自分たちを追い出すのではないかとか、自分たちの描きたい絵を描かせてくれないのではないかとか(前例あり。昨年局長、一党書記官、私の三者会談でようやく作品の内容に局が干渉をしないことを合意した)を非常に心配しているのだ。彼等は協力隊員を歯止めのように考えている。私は「君らが目先の利益にとらわれずに(たとえば、同じ給料だから作品を作らなくても、作品を売る店の運営に努力しなくても、同じと考えてしまわないで)、現場を盛り上げて作品=商品をもっと売り上げていけば、局も君らのやり方を尊重せざるを得なくなる」と繰り返すばかりだった。実際協力隊からの支援経費で購入した紙、版木、インクは1年以上のストックは十分あるし、宣伝ポスター、パンフレット、街に置く広告看板3つは協力隊の資金で完成させたので、当面は局の方へ資金面でお願いする必要はないのだから。しかし今まで「尻を叩いてきた」のは自分だったし、局での会合に彼等が参加できない現状は辛い。彼等は将来自分たちの成果を是非見に来いと言ってはりきっているが、不安は不安だ。

注(97年5月2日)先ず、私たちが最後の協力隊員だった事情がある。そしてザンジバル政府の情報文化省、文化局は作品の売り上げは全て回収するが、それを幾ばくたりとも作品を作った者に返そうとしなかったばかりか、作品の材料費もお金がないという理由でなかなか出そうとしなかった。これは長年に亙る協力隊との関係で、そのうち協力隊側で材料費を出すだろうとの打算が働いていたためと見られる。実際ギリギリの所で協力隊はそれを出していた(でないと、作品を作れないし、教えることもできないでしょう?)。作品を作った者への報酬がないというのは作家にやる気をなくさせるでしょう? 自分の作品が人気があると言うだけの報酬で作り続けれますか? とくに彼等は貧しく、家に帰ればバイトもしなくてならないのですから、職場ではなるべく仕事をしない方がよくなるのです。これに対しては、局から彼等自身が帳簿を任されていたため、局には売り上げを半分に申請し、残り30%を作家に、20%を全体の材料費にプールするという方法をとっていました(これは闇です。しかし局も自分で帳簿を管理しろよな。ただしザンジバル社会主義の元では全てがこの調子でそれぞれのセクションで自律管理が行われていたようです。しかし、これが汚職、腐敗の温床であることも喚起しておきます)。

全任期の協力効果について
効果について自分で書くことは難しい。しかし自分にとてもスタッフにとっても今年(1994年)8月26日から9月8日までの2週間実質上の首都ダル・エス・サラームで自主企画でグループ展をやったことが意義深かった。初めは配属先と協力しあって開催しようとしたが同意を得られず、こちらが押し切る形で開催した。その間の苦しさを言えば、スタッフが作品を作らなければならない時期に配属先から妨害としか思えない色々の手続きを私もスタッフも強いられた(開催を否定することを匂わした上での、多くの文書の作成と、話し合いの強制)ことである。しかし、最終的には開催にこぎつけた。絶対に展覧会のオープニングには来ないと思われたザンジバル文化・情報大臣、文化局長を含む関係者十数人がぎりぎりになり、一泊の予定で公費で来たのには、あきれてものが言えなかった(私たちは売り上げの40%を政府に払い、あとの60%でスタッフの宿泊、展覧会の運営を自主的に賄った。関係者の使った公費は、後に判明したことだが我々の売り上げよりも大きかった)。当然彼等の目的は我々の自主企画展であるにもかかわらず、ザンジバル政府のイニシアティブであるかのように粉飾することであったのは言うまでもない。政府に40%売り上げを渡したために、多少の赤字になってしまったが、我々は自分たちの力でやりたいように展覧会を行うという前例を作ったのは、スタッフに大きな自信となったと思う。そして今までは会えなかった同業者の作家、観光客ではない美術愛好家、ギャラリー等の美術関係者、単に大臣が列席することのみを報道に来るだけの「テレビザンジバル」とは違い、真剣に作品と作家を報道してくれたダル・エス・サラームのプレス関係者との交流は、スタッフにとって風穴が開き、世界をかいま見たような感じだったろう。理不尽なことの多かった任期中だったが、あの2週間は自分にとっても、本音で、否、本音だけで語り合うことの出来た2週間だった。

注(97年5月2日)ここで取材に来た「テレビザンジバル(以下ZTV)」について述べておく。 ZTVには同期隊員の小林君というのがいた。彼とは年も近く親友であった。彼はZTVのディレクターをやっていることになっていた。そこで前々から展覧会の取材を頼んでいたが、なかなかうんと言わなかった。しかしギリギリになって、局から許しが出たのでスタッフの2人を連れて1泊の予定で取材に来てくれると言う。その上、その2人の旅費等は協力隊持ちにしてもらうという。私はこの展覧会がザンジバルで報道されれば、協力隊の宣伝にもなるだろうから、協力隊がそれを負担するのだろうと思った。当日朝から彼等はやってきたが、飾り付けをする我々には全く興味がないようだった。レセプションが始まると彼等は大臣の周りに群がり、彼を撮り続けた、そして大臣は端の方で一人で演説をはじめた、我々はそんなことを頼んでいなかったのでびっくりしたが、テレビのライトが当たり、大臣が話すものだから人々はそちらの方へなだれ込んでいった。小林君はその時ライト持ちをやっていた。その後も、ZTVはぼくはおろかスタッフにも何のインタビューもしなかった。観客の2、3に感想を聞いて大臣が帰ると一緒に帰っていった。翌日の夕方ダル・エス・サラームで小林君に会ったのでいつ放送するのかと尋ねたら、自分が編集してからだから明日あたりと答えた。しかし、ちょうどその頃ザンジバルでは大統領のレセプションでの私的な演説が、あたかも公的なものであるかのように流れていたのであった。ここで分かったこと、
1*小林君はディレクターでも何でもなかったこと 
2*ザンジバル政府のインチキで卑怯な宣伝のために協力隊の金を使ったこと
3*友達がどんな思いで展覧会を企画し実行したのか分かっていたのに、それに対して侮辱したこと、
であった。でそういうことがあり、その後小林君とは激しい罵倒に対しても彼が反論も何しないので、一方的に絶交しました。
彼は協力隊の機関誌でも大々的に取り上げられたことがあったが、その時彼の書いた文章は今から考えれば、ほとんどが願望でしかなく、やっていることと、やりたいことを混同しただけのものだったのだ思う。小林君、一応君は芸術家志望だったのだから表現には責任を持つべきだよね。
このZTVにたいしてダル・エス・サラームの民間局はスタッフ4人の紹介を20分にも亙ってにやってくれました。スタッフがやんややんやの状態だったのは言うまでもありません。

障害点等問題点
何と言っても配属先の無理解である。そして美術とは何か、観光客相手の「商売」とは何かについての無知である。彼らは美術教育を受けたわけでもないし、店を経営したこともないのだから、しようがないと思う。だからといって、それを恥とも思わず、逆にとにかく自分らは地位が上なのだからといって一貫性のない、その場限りの考えで命令される方はいい迷惑である。今回の展覧会にしても共同開催は可能だったし、レセプションでこちらから大臣の顔を立てることも出来たが、さんざん妨害した挙げ句、開催許可は一週間前、その上大臣出席も2、3日前に通知というのでは、こちらもプライベートな形で出席して下さいと言う以上何もできないだろう(その2、3日前というのは我々にとって飾り付け等の一番忙しい時期であり、それを妨害されたと感じたのは思い過ごしだろうか? 彼らは在タンザニア日本大使を呼べと無理を言ってきた)。配属先がせめて現場中心・尊重で時にアドバイスをするという形になってくれればと願う。しかし状況は少しずつ推移していると思いたい。配属先の局長は展覧会後の決算報告書対して「非常に分かりやすく、透明である」「協力隊からの材料援助に感謝する」「ダル・エス・サラームで作家たちが接触を持った機関(ギャラリー、研究所等)と個人に対してフォローを続けていきたい」と回答してきたからだ。このような回答に対して我々は非常にうれしかった。今まで冗談でもこういう全うな言葉をかけてもらえなかったからである。過去がいかにひどかったかが分かったもらえると思う。だからこそ今後の状況は少しはよくなっていくと思いたい。実際私たちの前任者の金子元シニア隊員とザンジバル情報・文化省の間に「不幸な過去」があったのは事実であり、それが私たちの任期中尾を引いていたのは確かなのであるから。

注(97年5月2日)この件について当事者として話せることはない。ただ局長が極度の日本人嫌いになっていたのは確かである。それに輪をかけてしまったところが私にもある。ただ私について言えば、仕事に絡むことでは何ら疚しいことはない。

2.「協力活動」を終えて(感想・意見)

「協力活動」というにはしかし「協力」したのかしらという気持ちがある。私の活動は常に配属先との摩擦を引き起こした。最後の最後までそうであった。現在もレセプションで大臣が購入を約束した2点の作品代金380USD(そのうち40%は当然政府に払われるのだが)は未だ私たちの手元に届いていない(それについて一等書記官は文書による手続きをしてくれれば、速やかに渡すと確約したが、文書を手渡して1カ月経つが音信はない)。これでは「喧嘩」しているみたいで「協力」なのだろうか? しかし「理は理」なのではないかと思う。配属先の考え方、慣習にこちらが全く従っていないわけでは「今は」ない(赴任直後は知らないことでの暴走もあったと思うが)。だからといって例えばこの国の役所でしか通用しないようなことをただただ認めていく気にはなれない。実際私のスタッフはそういうこの国の役所でしか通用しないことで大変辛い思いをしているのだ。しかし一方で私はいつも自分があまり「理」を通すと、そのことであとでスタッフや同僚の大久保さんに迷惑がかかるのではないかと心配してきたのも事実である。しかしこの「理が通らない」というシステムの中では、誰が自分の仕事に責任と喜びを持てるだろうか? 現状では「無気力」が支配しているのは確かである。そういう意味で私はスタッフの「無気力」をどうにかなくそうとした。いい仕事をし、それに理があれば、その仕事はきっと何かの形で報われるのだということを示そうとしてきたのだと思う。例えば配属先には認められなくともダル・エス・サラームの展覧会に来た人たちは彼らの前途を祝福してくれたように。このことはこれからの自分の人生でも大切にしていきたいことだ。「協力」というよりも自分の人生をお互いに大事にしていくことを学び、確認しあいながらスタッフとともに活動を終えることが出来たことをうれしく思う。

事務局への要望等

私は生まれてこの方会社勤めをしたことがなかったので、こういう報告書をはじめ多くの手続きで不備が多かった。ことに展覧会はいつも自力で開いていたので、協力隊員であるということを忘れてスタッフと一緒に配属先との折衝に明け暮れて、現地タンザニア事務所との連絡すら全く頭になかった。結局開催許可の感触を得て、ダル・エス・サラームの展覧会場と連絡を密にしだしてから報告を初めてした有り様だった。このことで調整員からあとで「もっとこちらも協力出来たんですよ」と言われ恥ずかしかった。最終的に案内状とポスターの発送、プレスへの連絡等大変お世話になり、その上結果的に生じてしまった赤字(絶対出さないように営業に励んだのだが)も援助してもらうことになった。その上新事務所にということで作品も買い上げてもらった。以上のこと本当に感謝しております。あの頃はとても思い詰めていて、何もかも自分でやるしかないと思っていたわけで、自分の間抜けさに恥じ入るばかりです。というわけで、タンザニア事務所の皆様には色々ご迷惑もかけ、その上大変助けていただき、本当にありがとうございました。
日本の事務局については、私の配属先の特殊性もありますが、単に文化的違いからのみ生じるトラブルとは思えないので(普遍的な問題が含まれていると思います)、こういう事例に対してどういう解決を試みればいいのかを、事前研修の際に取り上げていてくれればと思いました。
私にとってはこの2年間の配属先とのやりとりは「理不尽」というか、美術用語でいえば「シュール」な、そして文学用語でいえば「不条理」な思いでしかなかったからです。
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