第4号(18カ月目)隊員報告書

1994年7月8日提出
荒井真一
タンザニア国派遣・H4年2次隊
職種・美術(94年1月/6月分)
配属先・住所 Nyumba ya Sanaa Zanzibar(Art Institute of Zanzibar)
c/o Wizara ya H.U.U.V.
P.O.Box456,Zanzibar,Tanzania

任国業務水準

a)担当業務の一般的状況
1994年1月10日Nyumba ya Sanaa Zanzibar(ザンジバル芸術の家)が正式にオープンしました。これでザンジバル政府がこの組織を正式に認めたということです。活動を始めてから足掛け6年の隊員の努力が実ったということであり、そこに居合わせることができ私はとてもうれしかった。ただオープンしたとはいうものの今の状態ではとても観光客を誘致できるものではない。というのは観光客の多くはダル・エス・サラームの「Nyumba ya Sanaa」を知っており、それとの関連で訪れるだろうから、その場合の観光客の失望感を客観的に考えざるを得ない。そして観光客の「口コミ」社会の中で彼らが他の観光客に及ぼす影響を考えると恐ろしくなる。そういう状況をいかに改善するかということで、どう内装をよくしていくかがOpen以後のこの半年であったと言える。しかし局はOpenまでに予算を食いつくし、内装に対しては一切資金がないという状態であった。私たち隊員はその中で色々やりくりした苦しい6カ月だった。1月7日には港の近く「驚嘆の家」の隣という好位置にかつてのスルタンの住居自体を博物館にした「The Palace Museum」も開館した。幸い我々協力隊員の努力でその窓口の後ろに支店を持つことができた。今までは政府高官や外国要人のためのプレゼントとして少額のお金でときどき作品を買い上げられるだけだったスタッフたちも、とくに「The Palace Museum」の支店の方から毎月一定の売り上げを出せるようになり、今ではそれが彼らのやる気の元になっている。3人の木版画のスタッフは8月にダル・エス・サラームでグループ展を行うことが決まり、現在大型版画を作っている。

b)日本と異なる点
日本ではある施設を開くのは、その後の目的のためである。例えば店を開くのはものを売るためである。しかしこのNyumba ya Sanaa対して局は革命記念日(1月12日)までにOpenさせるためのOpenと考えていたようだ。つまり1月10日のOpenning レセプションで彼らの目的は果たされてしまったようだ。うすうすは感じてはいたのだが1月から7月に至るこの半年はそれを思い知らされる半年だった。会議で内装について発言すると「それはとてもいい、是非実行しなさい」、「お金は?」、「あらあなた方が用意しているんじゃないの?」てな具合である。
よく似た話では8月にダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaでスタッフの4人展(題して「New Age of ZanzibART」)を企画したことで遭遇した。この展覧会についても企画の詰めの段階で突然(あまりにも当たり前なことで大丈夫だと聞き忘れていたのだが)、「売り上げは全部局に入れるように」と言われ、「では会場代や搬出・搬入費、DM・ポスター代、スタッフの移動・宿泊代等は売り上げから使ってはいけないのでしょうか?」「あなたが企画した以上、あなたがそれを賄うのは当たり前でしょう。作品の権利は全て局(政府)に所属しますから。それでなければ展覧会は認められません」(社会主義国であるから)正論である。現在折衝中。

c)特に注意すべき点
局の人たちは何もしないでいれば何のリスクもないという人たちである。つまりは現状維持。失敗すれば自分の責任になるから。その上何もしなくても少なくても給料がでるのだから、危ない橋を渡ったり、自分から新しい仕事を抱え込む必要はないと考えている。一方で現場のスタッフたちはなるべくいい環境を作り、観光客を誘致して作品を売りたいのである。作品を売れば当然その権利は局にあるのだから局にも金が入るのである。その金を使ってもっといい環境を作っていけばもっと観光客も来るのであるし、スタッフのやる気も上がるのを、局の人たちにはどうも分かっていないようである。つまりマネジメントというリスクを背負った仕事を局の方で引き受けない点が今後一番大きな問題となるだろう。

支援経費

a)3号報告とその効果(プロジェクトの現況と見直しについて)
版木・紙・描画材料購入のために2000USD近くの支援経費を得たために業務は順調に進んでいる。何よりも局との折衝のわずらわしさから解放されたのが精神衛生上とてもよかった。それまでは「局の方から版木を買ってもらわないと仕事ができないのです」「もう少し待って下さい」「もう3カ月も待っています。スタッフは作業をせず漫然と時間を過ごせばいいのですか?」「とにかくあなた方は教えることに専念して下さい(ごちゃごちゃ言うな)」「教えるといっても教材がないのに、どうやって?」「とにかく教えなさい!」唖然として帰る、の繰り返しだったわけですから。 そして「The Palace Museum」支店の開店。この開店にすら局は1日前まで開店の許可を許してくれませんでした。観光的には一等地であるMuseum内に支店を出せば売り上げが出るので、当然局にも歓迎してもらえると思っていたのが間違いでした。本店が開店する前に支店に力がかかるのはまずいとか、Museumのために仕事をやってやる必要はないとか、協力隊員がMuseumに頭を下げて場所提供してもらった経緯を知っているにもかかわらず、Museum側から協力要請の文書が出ない限り協力はできないといってはばからないのでした。最終的に事情を理解してくれたMuseumのダイレクターが我々のために、局の方に働きかけてくれて、承認をぎりぎりで得たわけです。今やこの支店は毎月決まった売り上げを出し、当然局はそこから本店以上の収益を上げています。このことで局側が協力隊にもスタッフにも多少柔軟な姿勢をとり始めてきているのが、救いといえば救いである。
私の木版画のスタッフ3人は芸術家としてはめきめきと頭角を表してきている。以前と違って自分の仕事に対して自覚的だし、制作もとても楽しそうである。こういう点で8月に2週間ダル・エス・サラームの「Nyumba ya Sanaa」で展覧会を開くことにした。開催については前述のようにいろいろの困難が予想されるが忍耐強くやっていくつもりである。
このダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaとの関係についても現在は良好であるが以前はそうとも言い切れなかった。私が始めてダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaを訪れたとき、そこの芸術家と親しくなりダイレクターに紹介してもらった。その時彼は「ザンジバルにもNyumba ya Sanaaがあるとは聞いていましたが、あなたが初めてです。いつ挨拶に来られるかお持ちしておりました」と言われたのであった。これには参ってしまった。6年以上Nyumba ya Sanaaという同じ名称を使いながら、なぜ挨拶の一つもなかったのだろうか? 「仁義なき戦い」という日本的な気分になったものだ。幸いにダイレクターに他意はなく「今後協力しあっていきましょう」と結ばれたので、ほっとした。

注(1997年5月3日)タンザニアではNyumba ya Sanaaは西洋的な美術館を指す新語として使われており、一般名詞的である、またタンザニア人にはコピーライトの意識が薄い。以上をもってザンジバル政府、局を責めるつもりはない。しかし、協力隊としては、観光客がNyumba ya Sanaaを固有名詞と捉えることは必至だから、ダル・エス・サラームとの関係が類推される名称を避けるべきだったと思う(実際観光客の多くはダル・エス・サラームの支店と思っている)。そして、このプロジェクトの推進者金子元シニア隊員はスタッフを引き連れてダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaを訪れているわけだから、なぜその時挨拶をしなかったのかが、とても疑問だ。

このように色々の困難はあるがスタッフたちにとってNyumba ya Sanaaの環境は隊員の努力でよくなってきていると思う。例えばこれからは局がどうこうではなく、スタッフがダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaと交流することで直接ネットワークを作れるだろうし、作品も向上していくと思う。はっきり言って局はダル・エス・サラームのNyumba ya Sanaaのことを商売敵くらい(実際は足下にも及ばないにもかかわらず)にしか思っていないと思う。そのことに対してスタッフたちがいつの日かそうではないんだと局を説得する日がやってくるだろう。ここで問題なのは作品制作の技術というよりはギャラリーの運営、ネットワーク作り、そして実際面では局や政府を説得していく能力ということになってくる。これは協力隊員の我々にも試行錯誤でしか出来なかったことである。しかも我々ならば局の会議にも一応参加出来るために、少しは可能になったことである。私の任期は6カ月を残すばかりだが、残された期間で彼らにそういった運営面でのことを伝授したり、討論し尽くすことができるだろうか? だから少なくともあと半年はスタッフたちのために任期を延長できないかと思っている。

一般状況

A)任国事情

a)衣・食・住の観察
衣については、女性がほとんどカンガというきれいにデザインされた布を使って腰巻きにしたり、顔を忍者のように包んだりしていて本土とは全く違った印象を受けます。これはイスラム教のためでアラブ地域よりは緩いですが、女性はあまり人前に身をさらしてはいけないということのためです。
食事は朝はお茶とパン、昼はご飯を中心としたもの、夜は軽くとるという風で昼食が主体のようです。ザンジバル名物は「ビリアニ」というハヤシライス風の炊き込みご飯で、祭事の時に食べます。
住居については街の中心のミチェンザーニ、キリマニといった場所では5階建てのアパート群もあるが、ちょっと街を外れれば土で建てた家が多い。そういう地域では電気は通っていても、経済的な理由で引いてないところが多い。

b)文化・習慣の相違点
ザンジバルにおいては、やはりイスラム教という点が一番大きいと思う。例えばスタッフは全員公務員ではあるが昼食の時間というのはとくに設けられていない。しかし1時から2時にかけて近くのモスクに行ってお祈りをする。これは明文化されていないが自明のこととなっており、どこの職場でもそうである。金曜日はイスラムでは一番大切な日であるから、午後は全てお祈りに捧げられ実質上仕事は午前中で終わってしまう。そして何といってもラマダン(断食)月だろう。太陽が出ている間は食事も水も自分の唾までも体内に入れてはいけないのである。ここは年中暑いところだから、スタッフたちはこの間、暑さにばてた犬のようになって集中力がなくなってしまい、仕事にならない。しかし仕事と宗教どちらを取るかと言えば、彼らは迷わず宗教を取るだろう(実際そうなっている)。このあたりが無宗教(と言ってもいい)の日本人には理解を超えた点だと思う。

B)協力活動(とくに後続隊員に参考となる事項)

a)エピソードまたは「ケーススタディ」となるような体験
わたしたちは配属先において現地の人の自助努力を助ける目的を持っていると、訓練所で言われ、そのつもりで赴任するのだが着いてみると唖然とすることが多い。わたしたちは日本政府から生活費をもらい、隊員支援経費をもらい、仕事に対しては何ら私情を挟まないで純粋に現地の人のためだけを考えているはずだ。しかしそれが現地の一部の人にとっては自分の利益を侵害されたような気分になり、協力隊員が何か自分自身の利益のために活動をしているように思い、妨害を受けることがある。そしてそのことで隊員は深く傷ついたり、憤ったりすることになる。
例えば昨年(1993年)の10月頃局の方にいくら版木を頼んでも購入してくれず、私のポケットマネーで購入したことがあった。しかしそれではよくない前例、あるいは最終的には協力隊がNyumba ya Sanaaの実際の制作にかかわる材料までも揃えてくれるという以前からの慣習を踏襲してしまうので、一計を案じてスタッフにお金を渡し彼らが自分で版木を買ったことにした。これに対して局の対応はすばやく、購入した翌日には、それを撤去するように言ってきた。日本人の感覚では親(局)にお金がないのなら、子供(スタッフ)が努力してお金を工面して仕事を続けるというのは健気で、どちらかというと賞賛に値する行為だと私は思っていたのだ。しかし局の言い分は、公的な場所で私的な生産物を作ることは許されないということであった(正論、しかし版木がないと仕事が出来ない)。
しかし、その言い分の後ろには私が政府を通じない形で作品を作らせ、それを密売させようとしているという読みがあったのではないか(そう忠告してくれた人もいたので)、と今では思っている。
このように自分では思ってもいないところから嫌疑をかけられることがあり、びっくりしてしまうことがある。後続隊員に具体的なアドバイスは出来ないが、とにかく我々には計り知れない感覚を持った人がいるということを肝に銘じておいた方がいい。

注(1996年5月4日)この件は正直に自分のポケットマネーで購入したことを打ち明け、最終的にザンジバル政府に版木を寄付するという形で了承された。しかし、その時の気分は複雑だった。局との間に若干の言い争いがあったのは、私の性格からして推測できるだろう。ポケットマネーは50USDほどだった。ここで当時のスタッフの給料について述べると、毎月30USDくらいでした。

C)任国内外旅行(任国又は任地との比較あるいは、後続隊員に参考となる事項)

ザンジバルの居心地がいいこともあり、任国内旅行はアルーシャ、モシ、タンガ、ダル・エス・サラーム、バガモヨ、モロゴロ、キロサと限られた地域にしか行っていない。一番印象的だったのはキロサである。キロサの母子健康センター訪れた際、私は母乳を子供に与えている女性の、しなびきった、おばあさんのような乳房に先ず目がいってしまった。そのあとで彼女の顔に目を移すとあどけなさの残る16、17の少女だった。これには衝撃を受けた。
キロサに着いた当日、バス停近くのゲストハウスのテラスで先ずビールを飲んで疲れをいやした。そこのおじさんに隊員のことや住居の場所などを尋ねていた。彼はテラスの外でビールやソーダの王冠を集めていた少年シーダ(スワヒリ語の意味で困難、もちろん本名です)君を読んで隊員の家まで案内することを頼んでくれた。シーダ君はぼくの友人の隊員と大の仲良しだと教えてくれた。彼と私は暑い日差しの中を不在の2軒の隊員の家に書き置きをしながら、1時間ばかり歩き回った。ゲストハウスに戻り、彼に「コーラでも飲むかい?」と聞くと「コーラを飲む分のお金を下さい、お母さんに上げたいから」と答えた。私はコーラ分のお金を彼に渡した。ザンジバルではこういう場合子供は喜んでコーラを飲むと思う。
彼は私が出発する日もバス停近くにやはり居て、バスのどこに席を取るべきかバスに乗り込んでまで教えてくれた。彼は3日前に会ったときと一緒のゴムの切れたずり落ちそうな半ズボンと煮染めたようなTシャツを着ていた。バス停のマーケットにはじゃがいもとトマトが1、2軒の店で細々と売られていただけだった。しかし、ザンジバルでもお馴染みの中古のTシャツやズボンを売る屋台にはモノがあふれていた。ザンジバルの貧しさとキロサの貧しさの違いを私は知った。ザンジバルは小さいながらも1つの国で人々が協力しながらどうにか生きているのだと思った。つまり、多分キロサは都市が田舎を搾取するという構造の上での貧しさも被っているのだろうと思った。

注(1996年5月4日)私はこの間展覧会の準備に追われて、任国外旅行の申請を忘れており、始末書等を書いたが任国外旅行は認められませんでした。任国外旅行は当時3週間で原則的に隣国(タンザニアの場合、ケニヤ、マラウイ、ザンビア、エチオピア)への旅行が認められていました。旅費は研修ということで上限を定めて支給されていました。任国内旅行には当然旅費は支給されませんでした。
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