第2号(6カ月目)隊員報告書

1993年8月24日提出
荒井真一
タンザニア国派遣・H4年2次隊
職種・美術(93年3月/5月分)
配属先・住所 Nyumba ya Sanaa Zanzibar(Art Institute of Zanzibar)
c/o Wizara ya H.U.U.V.
P.O.Box456,Zanzibar,Tanzania

1.着任時の配属先の状況(担当業務を主とする)

配属先のスタッフの内訳は、日本人スタッフ2名、版画・絵画2名(以後2名増え、4名)、彫刻7名(以後1名増え、8名)、染色3名(以後1名増え、4名)、統括及び局との連絡を行なう者2名である(この他、タイピスト1名、掃除、庭園整備で6名、夜間のガードマンが1名)。最近になって染色に5名の新生徒が存在することが分かった。シニア隊員の任期後期辺りから、局が一部の現地スタッフだけに相談のうえ、スタッフを増やしたり、生徒を募集し、別の場所で教育し既成事実化したうえで、日本人スタッフに押しつけてくるという、秘密主義とも言うべき態度を示しはじめている(こういう言い方はしたくないのだが、日々局が何を行なってくるかと戦々競々としているので仕方がない)。局の担当者はダイレクターとその補佐2名、染色、彫刻・版画の統括・連絡スタッフのそれぞれの2名であるが、統一した見解はいつも得られず、それぞれがどういう問題に対してもまちまちの答えをするため、我々に何を求めているのかすら判然としないし、況んやこのプロジェクトを将来的にどうしたいのかは一回として発言されていない(ダイレクターもしかり)。こういう問題に対して日本人スタッフを交えた会議は開かれた例しはなく、実際に作品を作っているスタッフは当然カヤの外である。こういう状況で前後の脈絡もなく、スタッフが増えたり、新しい生徒が来たりしている。建物の方も制作に必要な電気がいつまで経っても引かれないことも、ちゃんとした説明がなされない。我々はこのプロジェクトについてカヤの外に置かれているという状況である(あるいは行き当たりばったりで運営しているだけかもしれない)。

2.業務実施計画

 1.での問題については、このプロジェクトがJ.O.C.V.と局の間の共同プロジェクトである事を確認し、会議を定期的に持つようにしていく必要がある(現在もそれを要求しているが、ダイレクターの都合等で実現していない)。一方で、この何ヵ月かの局の対応に完全に失望し、結局プロジェクトの全体は不承不承、局の都合に合わせ、人材の育成に全力を注がないとやっていられないという気持ちも強い(心配したり、不誠実や虚偽の言葉に惑わされているのは時間の無駄だから)。  人材の育成については、着任した段階で版画・絵画部門のスタッフは基本的な作業を出来る状態であった事、又大変やる気がある事で、局との関係よりも、はるかに業務を遂行しやすい状態であった。ただし、彼らの作品の質が、まだまだ土産物としてすら画一的で独創性を欠いたステロタイプな物だったので、それを改善する事から始めた。今後の計画としては、とにかくここにある紙、描画材を利用して出来るだけたくさんの作品を作らせる(土産物等のことは考えないで)。その中から一人一人の個性を掴み取り、それを伸ばさせていく。具体的には、ハシム氏は田舎の民話を題材にした作品、アサー氏はここの代表的な民謡である「ターアラブ」の歌詞とイスラム装飾を題材にした作品、ムチ氏は漁師や街の生活を題材にした作品が面白いので、それに絞って作品を作り始めている。そのことによって作品自体に作る喜びが溢れて来ている。一方で、市内の土産物屋の調査を行ない、どういう物を観光客が求めているのかを考えさせ、土産物としての戦略を話し合っている。この二つは、パラレルに行なっている。というのは、売ることのみを考えて作品を作り始めると作品の発想、技術的側面すらもスポイルされ、悪く言えば日本の観光地で売っているペナントのようなキッチュな物しか出来なくなってくるからだ。実際、市内で売られている土産物にはその手の物が多く、目の肥えた欧米の観光客がまともに、それらに対しているとは思えない(安いことは安いのだが、自分自身買いたいと思った土産物は本当に少ない)。あとは、物を作る人間、つまり作家=アーチストとはどういうものなのかを実践の中で示していきたい。
              

3.要請内容(要請背景調査表と比較して)

a.任務の「変更」事項について
 版画・絵画を教えるという事については、変更がなかったが、その専門が銅版画であったことが、最大の変更点であった。銅版画の場合必要になる備品はエッチングプレスであり、版になる銅板である。エッチングプレスは以前J.O.C.V.で購入したものがあるのだが、葉書大の物しか刷れず我々専門家は「おもちゃ」と呼んでいるものであった。それよりも、銅板が現地では購入できず、購入できたとしても高価で、そのうえ煩雑な加工を必要とすることが分かった。前任者の段階で上記の理由から、比較的材料を揃えやすい木版画に主点を移していた。
b.相違点とその措置
 現在銅版画については、実現が難しいと考え、前任者と同様版画については、木版を教えている。しかし、現地で普通に売られている木は木版には適していないうえ、紙も文具用の粗雑なものしかなく、今のところ日本からの材料に頼っている状況である。この点については、現地スタッフと協力して調査を行ない、ぜひとも全てを現地で賄える様にしていかなければならない。
c.要請されている技術水準
 業務内容のところで述べたように、はっきり言って受け入れ側の局が何を我々に求めているのかすら、はっきりしない。況んや技術水準をやと言ったところである。しかし、自分が目標としていることを述べれば、一人一人のスタッフがこの島にある材料で美術作品を作り出せるようになること。そのうえで、観光客のトレンドを調査し土産物を作り、自ら、それをプロデュースし売っていけるようになることである。そのうえ、彼らの後進の指導に当たれる必要がある。現在スタッフはまだ学生気分が抜けず、ただ与えられた仕事をやっていればいいというところが見受けられる。しかし局が全く頼りにならないのだから、結局彼らスタッフが自らイニシアチブを取って、このプロジェクトを進めていかないと、頓挫してしまう可能性もあり、スタッフの教育は重要である。

4.機材(担当業務に関連して)

a.所属先が備えていたもの
 建築物、机・椅子等の備品、文具用としての紙。
b.JOCV調達分
 エッチングプレス(小)、銅版用備品、版画用紙、版木、版画用インキ、彫刻刀、木版用備品、描画材料(水彩絵具、色鉛筆、パステル、油絵具、アクリル絵具、筆、専門家用鉛筆、パレット)、文房具(カッター、鉛筆、消しゴム、スチール製物差し)
c.今後必要と思われるもの(機材要請書)及びその利用目的
 1.現地で購入出来る画材に関わるお金(中国製墨汁、糊、版画用紙、版木)
 2.現地で購入できない版画用品、及び画材(油絵具、アクリル絵具、色鉛筆等)
 3.書籍(美術全集、美術雑誌等)
 基本的には、現地の材料を使って作品を作り、その材料費は局が全てを負担すべきであると考える(例えば、作品の売り上げで賄う場合も、ここは局の管轄である)。しかし、実際のところ局は現在予算がないのか何か、ここを建設するだけで手いっぱいで、現地で買える材料を購入すると約束はしても実現されないし、されても三ヵ月後とかになる。ということで原則論を言っていてもスタッフの仕事が滞るだけである。そこで1が必要になる。次に2については美術教育という側面から必要になってくる。土産物を作るのが目的であるにしても、最低の美術教育は必要である。そのためには色々な表現方法に馴染んでおく必要がある。3については、発展途上国の特殊性に根ざしている。ここには、美術館はないし、図書館に行っても美術関係の書籍は2、3冊しかないのだ。美術教育には過去のすばらしい作品を数多く見ることが必要だが、ここではその機会が閉ざされている。又、教える側のスタッフが少ない現状では、スタッフの個性が多大に教えるものの影響を受けてしまいがちになるという弊害もあり、風通しを良くする必要もある。
                            

5.任国事情

a.自分の生活環境
 自分のザンジバルでの生活は、バス停迄6キロという住居で始まった。職場まで直通のバスはなく、バス停から直通ならば6キロのところを乗り換えて12キロかけて通った。つごう、1時間半強の東京のサラリーマン並みの通勤である。バスも時間がまちまちであるしポレポレといってもなかなか慣れることは出来なかった。結局インド製の重い酒屋自転車を買って通勤し始めたが12キロの悪路を走って職場に着くとくたくたになっていた。職場も自宅も田舎なので商店がなく、買物をするときなどは一日30キロも重い自転車で走った。局に対して送迎の車を要求したが、車がないと断られ(他のザンジバル隊員でバスで通えるのに送迎してもらっているのを見るにつけ泣いた?)、住宅の交換を申し出ると「今探しているから待っていろ」といつも言われた。ある人間はあからさまに「隊員はJOCVからバイクが出るのだからそれまで辛抱しろ」とさえ言った。自分は、日本の免許がないので貰えないかもしれないと言っても取り合ってもらえなかった。このことで、自分の局に対する気持ちは大きく損なわれた。日本で言う誠意ということが、全く認められず、そのばしのぎの事しか言わないのである。むしろ「出来ない、我慢してくれ。悪い」と言ってほしかった。そのうえ、訓練所にいる時、現地人との付き合いも難しいが、隊員同士でトラブることが意外に多いと聞いていたが、まさか自分がそれに巻き込まれる事になるとは思っていなかった。タンザニアには交通安全委員会という隊員の自主組織があり、それが隊員の交通安全意識高揚に努めている。その委員の人とトラブッたのである。新隊員歓迎会で自分は久しぶりの日本食とお酒に酔ってしまい、彼がしきりにタンザニア人を馬鹿にするのに耐えきれなくなり「お前はそんなに偉いのか? お前の方がよっぽど馬鹿だ」と言ってしまったのである。それ以来彼は、謝っても「当分口は聞きたくない」という調子であった。問題だったのは、交通安全委員会がバイク貸与資格試験やバイク講習会を実施していることで、彼は自分に対して便宜を払わないようにしだしたのだ。公の場所でも「荒井さんには、ぼく個人としてはバイクを貸与したくない」と発言して平然としているし、バイクの練習は出来ないし、試験ではちょっとでも失敗すると容赦なく落とされるし(他の隊員にはアドバイスし、何回か挑戦させていた)、結局自分がバイクを貸与されたのは随分経ってからであった。ザンジバルの場合、職場と自宅が近接していても、諸々の理由でバイクを全ての隊員が貸与されており、隊員のなかで一番僻地に住んでいる自分が貸与されないでいる事は、自分には不条理としか思えなかった。それにしても、私事を他の隊員の業務遂行妨害で晴らすというのは、どういうものだろうか?

 健康面ではマラリヤには罹らなかったものの、原因不明の皮膚病で身動きが取れなくなったり、泥棒に入られたりと踏んだり蹴ったりの日が続き、さながらカフカの小説の主人公になったみたいであった。しかし最近はバイクも貸与され、生活が少しずつ安定してきている。

 この間からズマリというクラリネットに似た、現地のダンスで使用される民族楽器と、ザンジバル史を習い始めた。ズマリはアラブ起源の楽器でタンザニア国内ではこの地域だけで使われている。そのうえ演奏できる人も二桁台しかいないと思われる。若い人は現地のダンスよりもディスコやカセットでリンガラやレゲエ等の輸入音楽で踊るのを好むので後継者不足が早晩起こり始めると思われる楽器である。自分の先生はコンボ氏といい、日本で言う無形文化財みたような人であるが、普段の生活は典型的な田舎のザンジバリアンであり、練習以外に彼の家で食事したり、非合法の地酒バーで話をしたり、彼の演奏について田舎の儀式(ダンス)に出たり、職場に居るだけでは分からなかったディープな生活に触れられて有意義である。

 ザンジバル史については、社会主義政権ということで歴史を政権が独占していた時期もあり、出版物も少なく、人々はその教育を受けた時期によってまちまちの事を教えられているらしいと分かり、ちゃんとした学者から、学問的な観点で見た歴史を知りたく思い、始めた。ザンジバルはアフリカのなかでも、古くから交易により栄え、異人種間の交流が進んでいた特殊な地域であり、欧米の学者からも近年特に注目を集めている。そのための研究センターともいえる立派なアーカイブがあり、自分もそこに通ううちに、博物館のダイレクターで新進気鋭の学者であるジュマ氏を先生に得た。彼の講義を受けるにつれ、この地域が海のシルクロードの最終地域であること、その文化がコスモポリタンな事などが分かってきた。かつてはスワヒリ語がアラビア語アルファベットで表記されており、多くの人がモスリムでコーランを読む教育を受けているため、識字率が高かったこと、その事と富を背景にギリシャやルネッサンス期のような文化的に高いレベルの都市国家群を形成していたこと、17世紀に始まるポルトガルの登場によりその均衡が破れ、アラブ(オマーン)、イギリスと次々に介入され、革命前夜の状況が用意されたことを知った。これから、イギリスの資本主義(帝国主義)的介入、革命前夜の階級・人種等の構成、革命後の政治状況等を詳しく習っていくことになるのだが非常に楽しみである。

 ところで、こういったことに費やされるお金は、決して小額ではなく、そのうえこの国では全く洋書が手に入らないので、現在郵送でイタリア・アメリカ等の美術雑誌を4誌(在日中から継続している)取っているが、現地の感覚で生活する分には410ドルというのは大変な額であるが、ひとたび個人授業(自分の場合、このほかスワヒリ語も習っている)や外国雑誌の購入となると足りなくなってしまう。これらのことが協力隊活動と関係があるかどうかは別として、実際にほかからお金が得られない状況では、資金の調達は勢い日本からになり、知人の手を煩わす結果になってしまう。例えば、積立金をこういう目的のために自由に遣えるように制度を変えてもらえないかと思う次第である。自分にとってはここに居る間にしか出来ないことや、日本に帰ってからも作家(美術家)として活動していくのに必要であり、ここのスタッフにとっても外国の状況を知るのに役立っているだけに、切にお願いしたい事柄である。


        警備員傭上費支給申請書(別紙)

その他の理由:警備員を複数傭上する点について。周囲の治安状況で述べたように、昼間から職のない若者がぶらぶらしており、なおかつ田舎なので人通りは決して多くない。だから、塀で囲われた敷地内に侵入されてしまえば、よほど大きな物音をたてないかぎり盗難の準備はスムーズに行なえる。こういう状況では昼間も警備員が必要になってくる。しかし、昼間の警備員はここが田舎で通勤の便が良くないことや、昼の警備員だと昼間自分の農作業が出来ないことなどで、為り手が少なく、結局月〜金の人と土日の人の2人シフトにするしかなかった。これに夜の警備員を含めて、計3人の傭上になった(夜の傭上費8000シルに対して昼の傭上費が計10000シル と高いのは為り手が少なかった事に起因します。なお付け加えますと、ザンジバルでは上記の傭上費はほぼ現在の相場どおりで、特に安くも高くもありません)。
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