第1号(3カ月目)隊員報告書

1993年4月27日提出
荒井真一
タンザニア国派遣・H4年2次隊
職種・美術(92年12月/93年5月分)
配属先・住所 Nyumba ya Sanaa Zanzibar(Art Institute of Zanzibar)
c/o Wizara ya H.U.U.V.
P.O.Box456,Zanzibar,Tanzania

業務内容

(A)配属先
a)配属先機関名:
Nyumba ya Sanaa(芸術の家)、Wizara ya H.U.U.V.(文化・情報・観光・青年省)の版画・美術(絵画)部門。

b)配属先の組織と規模
Wizara ya H.U.U.V.の中の文化局の管轄の工芸課に属する。Nyumba ya Sanaaは、かつての染色隊員の活動をもとに、J.O.C.V.と文化局の間で染色以外彫刻・版画を含めた、教室・工房・画廊の三つの機能を有機的に作用させるために計画された。現在建設が大幅に遅れつつもザンジバル郊外に(市中より8Km)に建物が完成しつつある。現在は染色はゴメ・コングエ(旧砦、名所・旧跡、市の中心に存在)、彫刻・版画(絵画)はマナコレクエ(建設中の建物)で作業を行っている。文化局の中では、工芸・美術を扱うのは工芸課だけであり、工芸課とはつまりNyumba ya Sanaaを差す状態である。

c)日本人を含めた外国人スタッフの有無及び役割
日本人スタッフは彫刻、染色、版画(絵画)に各一人で計三人である。現地スタッフは彫刻7人、版画(絵画)2人(1人欠員)、染色3人であり、統括及び局との連絡を受け持つスタッフが1人である。
現地スタッフは作品の制作とその販売、及びゆくゆくは新しい人材の養成(教師になること)が期待されている。日本人スタッフはまだ未熟な作品制作上の技術の教育及び販売方法及び作品の傾向等のアドバイスを行っている。局及び統括スタッフは、美術及び工房・画廊経営についてほとんど経験がないと思われる。

(B)協力活動
a)今後2年間の決意と心構え

この4カ月スタッフの仕事、ザンジバルの文化状況をトランスポートの不便さをくぐり抜けつつ見てきた。タンザニア全体の中でこの島の特徴はイスラム・アラブ文化圏であることと、海に囲まれていることに尽きる。そして観光客が多いこと、輸入品が豊富であることに見られるように、比較的外部(外国)との交流が多く、ザンジバル市街は地方都市でありながら都会的なものも感じられる。つまり、タンザニアの中では文化的なものが表面化している印象を受けた。この状況の中では、訓練所、あるいは訓練前の面接で言われた、民族的な作品を土産物で考えるよりも、もっと外国人観光客を主眼とし、ザンジバルの現在の文化状況を考慮した作品を土産物とした方が有利に思った。しかしスタッフの作る作品は当初、帆船(ダウ)、オールドタウン(石の街)、イスラム女性の顔を隠した立ち姿等、この島のどこの土産物屋でも散見される、ステロタイプで差別化が行えないものだった。これらはある種の民俗的みやげであるが、自分はむしろザンジバルの現在の文化状況を主眼にアドバイスしてきたし、これからもしていきたい。具体的にはスタッフの現在の生活の掘り起こし(ダラダラ=10人乗りのミニバス、ガリ・ヤ・シャンバ=田舎行きの屋根に荷物満載のバス、ディスコ、現地レストラン、市場の喧噪等)、それをテーマにする。一方で彼らが子供時代に聞いてきた長老らの民話を採取試、それをテーマにザンジバル文化の根底を押さえていく。このことで他の土産物屋との作品の差別化を図り、かつ奥深いものにし、スタッフが職人というよりも芸術家として制作していくことを手助けしたい。また芸術一般については、全くと言って知らないようなので(版画の技術は知っているものの)、美術史、そして現在の美術の状況など、彼らがこの島や国から飛び出そうとするときに(具体的に外遊するという意味ではなく、意識が)、必要となるであろうことをオーソドックスに教えていきたい。

支援体制

(A)受入体制
a)隊員の配属先での位置付け

業務内容(A)のc)で前述したように、あるいは(A)のb)Nyumba ya Sanaa構築の経緯からも判断されるように、局の方では染色に関しては、販売等のイメージがあったろうが、Nyumba ya Sanaaという組織についてはJ.O.C.V.との意見交換の上でイメージを作り上げるという状態である。それは教育・工房・画廊の機能を有機的に展開するということも、先進的で日本にもあまり例がないし、欧米においても珍しいと思われるからだ(ただしダル・エス・サラームには教育部門を擁しないが、歴史のあるNyumba ya Sanaa D.S.M.がある)。したがって隊員はスタッフの教育に当たる一方、局、スタッフと一緒にNyumba ya Sanaaの運営も考えて行かざるを得ない。またタンザニアでは初等・中等教育では美術教育が十全に行われていないという事情もあり、スタッフに対して美術教育の在り方をも(これからは)指導していくことを求められていると思われる。

b)予算的裏付け(任国の予算状況・J.O.C.V.の支援経費)
タンザニアの経済状態一般がよくないのであるが、文化的部門は特に立ち後れていると思われる(図書館の本の不足、美術館の不足)。
そういう状況の中で、最低の予算措置が採られ、なおかつ必要なものの提供が遅く、仕事にならないという状況である。以前はスタッフが使う機材でタンザニアで手に入らないもの(といっても、彫刻の木材、染色の布を除く全て)をJ.O.C.V.側で提供していた。しかし今次からは自助努力及びNyumba ya Sanaaの第二段階(スタッフが育成されつつあること)を考えて、なるべく現地で調達できるものを使って、作品を作ることにし、局とも合意をとりつけた。そのため局の予算が若干増えることになったわけであるが、そういう点を差し引いて見ても、局の方に依然としてスタッフ養成に関する機材はJ.O.C.V.負担という悪しき観念が巣くっているように思う。そのために機材の遅配が発生し、スタッフと局の間に困難が生じているように思われる。

c)計画
b)で述べた状況であるから、問題は複雑である、つまり機材がない以上、スタッフが仕事ができない。かといって自腹を切って紙、インク等を買うのは越権であろう。統括スタッフ、局に機材の速やかな提供を求めはするが、対処はポレポレ(ゆっくり、ゆっくり=スワヒリ語)であり、いつになるかすら分からない。この点について局、スタッフ、J.O.C.V.で会議を持ち、改善していく必要がある。今後のJ.O.C.V.支援経費は作品制作に直接かかわるものというより、それを支援していくもの、また局から直接支援を要請され、理由のある作品制作にかかわる消耗品に使われるべきだろう。具体的には前者は絵画という前提に立った上でのアクリル・油彩画のマテリアル(現地では購入できない)、後者は紙・インク・彫刻刀(刀については現地にない)ということになる。また、今後の展開を考えた上でエッチングのグランドプレスも必要になるかもしれない(これは前者に相当)。

d)隊員の住居手配状況(@相手国が手配した場合A隊員自身が手配した場合)
住居は@であり、着任と同時に手配された。ただし住居に付随する一切は全く手配されなかった。あえて付随されたと述べたのは手配された住居の特殊性によるものである。それは1.公共交通機関とのアクセスが非常に困難 2.外国人居住者が少なく盗難が頻繁におこる 3.建物の老朽化 の3点である。1については職場へはバス停まで徒歩30分、バスで20分さらに乗り換えて20分ということで、乗り換えも含めると1時間半以上かかる。その上バス停までの道は雨の日と夜には使用できない。また日常の買い物にも徒歩30分+バス20分を要することから、トランスポート(例えば送迎)を要求したが(かつての隊員がオートバイを得た時点で入居したという理由で)のらりくらりと拒絶された。2、3については1とともに住居の変更を希望する一方、改善を要求したが受け入れられず、先日ついに盗難に遭い、兵の改善と天窓への防護柵を文書によって要求した。警備人の手配については着任時より自力で行っており、それについての局側のサポートはなかった。

一般状況

(A)任国事情
a)任国の印象

着いた当初はそれほど貧しくもなく物も豊富で人々ものびのびと生活しているという印象を受けた。しかし生活するにつれ自分の文明人としての不満が頭をもたげてきた。書店が全くない、図書館に本がない、画材が全くない、オーディオテープが限られたジャンルしかない等のことだ。またザンジバルの歴史を調べようとして、スワヒリ語の歴史の教科書を貸してもらおうとして、学校で歴史の時間がなかったことにもショックを受けた。結局英語の研究書、それもイギリス人が書いた物が一番信頼できる物らしいと知り唖然とした。衣食住については少しずつ改善されてきているのだろうが、文化・教育についてはまだまだ手が回らないというのが現在の状況だろうか。スタッフたちは西洋絵画などは全く見たことはなく、ダル・エス・サラームのティンガ・ティンガやNyumba ya Sanaaについても外国人の自分の方が知っているという状態である。テレビ、ラジオはあるというものの、この国の情報というのは、まだまだ口コミの域を出ていないという感じである。そういうわけだからスタッフたちの知的好奇心は旺盛であり、自分のつたない英語とスワヒリ語で説明すること、持参した欧米の美術書や日本の雑誌を食い入るように見つめ、聞いている。日本の状況を考えた場合、第二次世界大戦の敗戦のあと、まだ人々が外国にあまり行けず、現在のように海外の情報も多くない時期に、文学は論争も活発で重要な作品も生まれ、映画界は活気があり、黒澤らが海外で賞を取り、美術界も大阪の「具体」のように日本的な前衛を派出したのであり、今この国の若い人たちも、まさにそういう状況、文化的な草創期を生きているのではないかと思い、その手助けをしていくことは、とても重大な仕事だと思っている。

b)現地訓練について
バガモヨでの2週間はショックアブソーバーとしての2週間であり、日本の自分とタンザニアの自分を切り替える大切な時間だったと思う。ただ訓練の質が日本のそれと必ずしも連動しているとは言えず、その点が残念だった。具体的にいうと日本での訓練では関係代名詞、動詞の活用などいくぶん高度な内容を時間の関係で切り詰めて行ってきていたのに、バガモヨではまた初級から始めるということだった。また地方の暮らしは語学研修のみの観点からは集中できてよかったが、実際の暮らし等を考えた場合、もう少し街に近く自由に街の生活(買い物や散歩)をできる場所の方がよかったかもしれない。しかし現地訓練の特別授業(こちらからの要望で)でタンザニアの多党制の実際についてレクチャーを受けたり、講師たちが若いインテリであったために、色々と彼らの生活、文化への意見やその実際を見聞できたのはよかった。

 バイクの訓練について
交通安全委員会で行うバイクの訓練をバガモヨで行ってほしい。現在のところ交通安全委員会では運転資格試験を行っているが、現地の交通事情を考えた場合、資格を持つだけでは不十分だと思うので、実際に街乗り等で交通法規等の講習を受けたいと思った。しかし任地入りしてからでは隊員相互にも仕事や生活があり、時間を取るのが困難であったりする。そこでバガモヨにいる間に交通安全委員会の人には、はなはだ迷惑な話ではあるが、ご足労願って集中的にバイクの訓練を行うのがよいのではないかと思った。地域的には交通安全委員に会ったり、委員会に出席するのもトランスポート等で困難が伴う隊員も居ると思う(かくいう自分もそうだが)ので、是非実施してもらいたく思う。


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