第0号(訓練中)隊員報告書

青年海外協力隊事務局

訓練所長 殿

1992年11月9日提出
荒井真一
タンザニア国派遣・H4年2次隊
職種・美術

タンザニア……ぼくにとって、それは全く未知の国だったし、今でもそうである。候補生に決まって、初めて地図でその存在を確かめたくらいである。タンザニアというよりもアフリカ自体なじみの少ない地域であった。その一方、タンザニアという国名は知らなかったわけではないし、アフリカに対してもヴィジュアルイメージというものがないわけでもない。動物(ライオン、象、キリン、サイ、チータ)、民族(俗)音楽(トーキングドラム、タムタム、口琴)、舞踏、植民地支配、マラソンランナー、南アフリカのアパルトヘイト、アルジェリア戦争、内戦、飢餓=BAND AID等、断片的な情報があの広大な大陸と歴史を持った中に、何の脈絡もなく等置されていた。それは今でもあまり変わっていないだろう。これが情報過多社会日本の一青年(?)の現実である。入所して約2カ月、積極的にタンザニアのことを知ろうとしたが、語学訓練等で多忙であることにかまけていたのは否めない。その中で得た任国タンザニアについての概略を先ず報告し、次に進みたいと思う。

1.任国の概略  

正式国名 Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (United Republic of Tanzania、タンザニア連合共和国)
1961年12月9日に英国信託統治領からタンガニーカが独立 1963年12月10日にアラブ主導でザンジバルが独立、後1964年1月12日に革命が起こりアフロ・シラジ党(ASP)政権が発足 1964年4月26日タンガニーカとザンジバルが合邦しタンザニア連合共和国が建国。
建国後はタンガニーカ独立運動の中心だったタンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)のジュリアス・ニエレレが大統領となり社会主義的政策を進めていく。詳しくは調べていないが、アフリカ型社会主義といわれるタイプが存在し、それは先発のソ連(現ロシアほか)、中国、キューバなどとは異なっており、一般には緩い社会主義と考えられている。タンザニアの社会主義はウジャマー社会主義(タンザニアではウジャマー=社会主義であるが)と呼ばれ、 アフリカ特にタンザニア近辺の住民は植民地化される以前から ウジャマー(親類、兄弟等に見られる相互扶助の心)を中心に生活しており、社会主義は現在におけるそのウジャマーの発展・継承であるという考えをもとにしている。つまり植民地化による、帝国主義的資本主義化によってウジャマーは破壊されつつあり、それを復活・回復させるといってもよい。厳格な社会主義理論からいえば、植民地化以前の共同体を社会主義的だと規定するのは、非実証的で非科学的で空想的であった。しかし、この ウジャマー社会主義の空想的なところが、ウジャマーをソ連のソホーズ、コホーズや中国の人民公社のようなものにしなかったとも言える。この農村の集団化は1967年2月のアルーシャ宣言の中心政策であった。1983年ニエレレはこのウジャマーの失敗を認めた。ウジャマー村が生産量を上げられなかったことが失敗の本質だったのだろうが、1960年代後半から70年代初等の好調さのあとに、石油ショック、対ウガンダ戦争等タンザニアの経済は打撃を受ける。この間ニエレレのウジャマー主義=近隣同胞への援助の姿勢は自国を経済困難に陥れたが、多くの人が賛意を示したのでもある。またその自主独立の気風は経済第一の国際政治の中でも異色のものであり、中国、ソ連のように覇権主義でないところ(なれなかった?)も評価されてよいのではないか。ともかく80年代のタンザニアはウジャマー社会主義の失敗を自覚し、新たな国家政策を模索しはじめた。これは実は中国、ソ連、東欧の動きに先立つものだったのではないか? と考える。ウジャマー村にしても、集団化を解体した後も、そこにはそれまでなかった学校、役場、それから人々が集まって住む村は残ったわけである。ただしAbdi先生などの話から想像するに一時期は相当な平等主義が横行し働く意欲をなくした人々が出、その人々が海外に出ていったということもあり、内情はぼくの考えたような楽観的なものではなかったろう。また一部の学者はウジャマー主義をヴィジョンを欠いた楽観的・場当たり主義とも述べている。しかし92年には複数政党制を導入し、経済的にも外国の影響をあまり受けていないタンザニアの将来は暗くないだろう。 貧困という問題を解決することが唯一の問題という感じを持った(例えば、イデオロギー、民族問題、自国文化の破壊等のことは、ぼくの読んだり、講義を受けたりして中では語られなかった)。多少政治に傾いた感があるが、紙数の都合もあり、また自分の興味の点からも任地の概略はこの程度にします。

2.ザンジバルの"Nyumba ya Sanaa "について

ぼくの任地はザンジバルのNyumba ya Sanaa(芸術の家)になります。これは彫刻、染色、美術(版画)の三部門からなる、制作、教育、販売、つまりアトリエ、ワークショップ、ギャラリーを総合したものになります。つまり学校でもないし、工房でもないし、お店でもないという複合的な組織です。つまり運営についてはどこに焦点を置くかによって変わってくるので、その辺りについては前任者の報告書からも分かりにくいところがあり、赴任してみてからのお楽しみであります。現在ギャラリー機能を中心にした建物を建設中であるということです。年何回か展覧会を開き、その時生徒、あるいはアトリエ生の作品を売っているそうで、染色については独立採算ペースも可能ということです(売れた作品を作家=アトリエ生とNyumba ya Sanaaとで折半する)。 Nyumba ya Sanaaはダル・エス・サラームにも存在し、こちらは1972年に米国のカトリック宣教師により身体障害者の雇用促進と失業者の救済のために始められた。現在では政府の援助もあるものの、ほとんど独立採算で運営され、近代的アトリエ機能を持ち、周辺アーチスト(例えばティンガ・ティンガ絵画派、アフリカンポップバンド)と強調し、とてもよい活動を行っている。前任者松本さんの話ではバラ色だけではなく運営に不透明な面もあるようだが、ザンジバルのNyumba ya Sanaaにとっても一つのケーススタディになるだろう。ザンジバルの場合も協力隊サイドで設立を働きかけた経緯もあり、ザンジバル政府もターアラブなどにかける予算よりも比べものにならないくらいの低額らしいが、活動が進むにつれて美術の重要性も認識されるのではないかと思う。

3.任地での仕事のプラン(あくまでも、現段階で)

まず当然版画の技術である。松本さんの話ではザンジバルで一番やりやすい技法は木版画ということで、木版画に力を入れているらしいので、とりあえずは木版画をやる。一方で銅版画の小型プレスもあるというのでコラグラフ形式の凹版をやったり(当然浸水可能な腰の強い紙を探さなければならない)、木版をプレスで刷ったりしてみたい。又できればA3程度の版を刷れる自立式のプレス機(50万円ぐらい)を入れてもらって、ある程度作品として見られる大きさの銅販=凹版、または平版=木版を刷りたいと思う。木版の木が堅いものらしいので木版による凹版も可能かもしれない。凹版については印刷用のインクの生成も必要である。

次にアート一般に対するワークショップをしたい。当然古典的?人物デッサンから始まり、シュルレアリストたちのコラージュ、抽象表現主義者たちのトリッピング、染め込まし技法、コンセプチュアルアーティストたちの文字による作品等、ワークショップを行うことで、版画という枠にとらわれない、表現の可能性を視野に入れておきたい。又外部からの講師を呼んでワークショップをやりたい(例えば看板職人や大道芸人、当然ティンガ・ティンガ絵画派のジェフリー)。そのことで地域の文化と交流を深める狙いもある。この作業はアトリエ生がアーティストとしてやっていかない場合、無駄なように見えるかもしれないが、自国の文化を相対化し、伝統を意識化し、新しい表現法に接することは、商業的生産物の制作、将来文化行政に携わる場合にも有益だと思う。一方でアーティストとして成功するにはアフリカ的特徴も大切であるが、ヨーロッパにまたアメリカ合衆国に近いことも含めて、欧米の現代美術のコンテキストを知っておくことは強い武器になると考える。またアトリエ生自体も同時代性の中で従来の美術だけでは知的好奇心を満足させれないではないかと思う。

三つ目にパブリックアートの実践を行いたい。「公共性領域に向けての芸術」とでも訳してもよい。この領域は日本では特に遅れている。アートを通して社会に対して発言を試みることである。あまりいい例ではいが社会主義国のプロパガンダアートの主体が個人あるいは作家グループになったものである。履歴書にも書いたが現在ぼくはVisual AIDS TOKYO の一員である。このグループはアートがAIDS問題にどうかかわれるか? またAIDSにとってアートとは何か? ということを考え、その中から社会に発言する作品を作ってきた。今年の12月にも芸術文化振興基金の助成を受けてJR中野駅近くのビルボードを使ったインスタレーションを行う。ぼくらの研究会では以前アフリカにおけるAIDSの状況の惨めさを知っている。タンザニアもアルーシャなど観光地を中心に感染者、患者が増加していると聞いている。ザンジバルはどうなっているか分からないが、この問題と無関係ではないだろう。アトリエ生たちとディスカッションし、ぼくが東京でやっていたような活動を彼らと共同で行えたら幸いである。またAIDSに限らず彼らが社会に発言したいことを考えていくこともいいと思う。
以上の三点がぼくのプランである。あくまでもこの二カ月日本で考えたことで机上の空論ではある。この報告書を読んでもらい欠点を是正していただければ幸いである。最後に墓穴を掘るようなことを言えば、基本的にはぼくもNyumba ya Sanaaの一アトリエ生として存在したいと思っている。決して何かを教えるという存在にはなりたくない。彼らよりもキャリアの長いアーティストして彼らと一緒に仕事をしていきたい。というのも、ぼくがアーティストとしてやってきたのは、決して誰かに手取り足取り教えてもらったのではなく、たとえば師である吉田克朗の作家としての(アーティストとしての)生き方、考え方、その作品自体に影響を受けてであって、彼から作品の作り方(技術を除く)を教えてもらったわけではないからだ。そういう意味(アトリエ生の一人)で、ぼくは"日本の現代美術作家"という枠組みをほかのアトリエ生に壊してもらうことになるだろうと思う。また、ぼく自身日本に居たときと同様に作品を沢山作ろうと思っている。ただ描画材料や紙、布等は日本から持っていかないつもりなので、ザンジバルの状況の中で何を作れるかを調査してからのことになると思う。ぼく自身にとっても多産であり、ザンジバルのNyumba ya Sanaaにとっても多産である、任期であることを祈って筆を置きます。



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