日本もタンザニアもとってもシュール  

荒井真一

以下の文章は「あいだExtra*」30号(98.6.20)に寄稿したものです。 
*「あいだExtra」はニュースレター形式の月刊美術ジャーナリズムです。
B5判24ページに多彩な執筆陣と編集長福住治夫さんによる濃い内容のレ
ポートがぎっしり。「BT」や新聞の美術欄では決して伝えられない状況を
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 1992年11月17日、赤坂の東宮御所でシェリーを飲みながら、継宮(つぎのみや)一家を広間の隅の方で眺めていた。これからそれぞれの国々に出発しようとする200名ほどの海外青年協力隊員たちが継宮明仁・美智子夫妻、浩宮徳仁の周りに集まって歓談していた。
 その年、9月初旬から勤めを辞め、家を友人に又貸しし、広尾の訓練所で合宿しながらスワヒリ語などの訓練を受けていた。長い2カ月半の訓練がほぼ終わり、タンザニアに向けて気持ちが膨らんでいるときに、H教務主任から「天皇拝謁」について説明があった。「拝謁」の前日には友人に頼んで父親が急病になったという電話を入れてもらうつもりでいた。しかし、H氏は「皆さんの中にはどうしても『拝謁』できないという人もいるだろうから、そういう人はわたしに相談して下さい」と言った。
 その言葉をまともに受け、H氏に相談したため、その日から3日間にわたり、恫喝、懐柔、泣き落としが続いた。H氏の恫喝――自分の国の元首や国旗を尊敬できないような者は、派遣された国の元首や国旗も尊敬しないので必ずトラブルを起こす、そういう人間は隊員として失格である。つまりお前は隊員失格である、お前を不合格にしてやる、と言外に言ったのである。たとえば、協力隊顧問医に体力的に不適格な兆候があると診断させれば、わたしはこの段階でも不合格になるのだった。
 次の日はこの2カ月半、20人単位の班の世話係をしていた「指導員」といわれるOBによる懐柔。天皇制についての意見に「ぼくもそう思うよ、今は戦前じゃないからね。でも、君も今まで頑張ってきたんだからタンザニアで仕事をしたいでしょう? それが今一番大事なことではないかな」
 3日目、「拝謁」前日には訓練所所長直々の泣き落とし。「もう君も理解できたと思う。君が出席しないとわれわれも困る、君も困る。そういうことだから出席してもらえるよね」
 恫喝された日に、同じ隊員仲間の村役場で組合の青年部長をしていた男に「君は馬鹿じゃないの、正直に相談するなんて。事務局の罠に決まっているでしょう」と軽くあしらわれた。また、そのころエイズ問題で面識のあった社会党代議士の秘書に電話で相談したが「大変ですね、頑張って下さい。帰国されたらタンザニアでの貴重な体験をお聞かせ下さい」と言われただけだった。  
 H氏は数日後の出発壮行会のパーティで、「タンザニアに行けてよかったね。タンザニアの事務所にはわたしの知り合いがいるから君の活動を監視してもらうように頼んでおいたよ」と囁いた。

 1994年7月、ザンジバル政府の文化省(タンザニア連合共和国は、タンガニーカ本土とザンジバル群島の連合国家、ザンジバルは準自治権が与えられ独自の政府機関を持つ)から、先日提出した展覧会の最終企画書にクレームがついた。これは教え子の版画家3人と染織家1人のグループ展で、8月にタンザニアの首都ダル・エス・サラームで行う予定で半年前から準備を進めていたものだ。クレームは会場費、広報費、レセプションのパーティ費、(貧乏な)4人のダル・エス・サラームへの渡航費、食費、宿泊費等の展覧会にかかる費用を、なぜ作品の売上げで賄おうとするのか? 君にも彼ら4人にもその権利はない、というものだった。そう、ここは社会主義国。来年からはその美術学校の教師になる4人は、すでに公務員だったのだ。彼らが学校でつくった作品は政府の管理下にあるわけだ。つまり、展覧会を企画したわれわれが経費をすべて賄い、売上げはすべて政府に納入せよというわけだ。そのうえ、公務員である4人の渡航費等を文化省で工面するつもりもないと言う。
 半月にわたる数々の書類のやり取りと根回しの末、売上げの40%を政府に納入することで話がついた。そして展覧会の1週間前になって、また文化省から呼び出された。文化大臣がレセプションに出席することになったから、日本側からは日本大使を呼ぶように、ということだった。それまで展覧会に非協力的だった文化省のトップが出席してくれるのはうれしかったが、急に日本大使を呼び出せと言われても…… とりあえず協力隊のタンザニア事務所に電話した。しかし大使館に連絡を取ってみたが、何しろ急な話でレセプション当日にならないと分からないと言われた。
 結局、文化省に今回の展覧会はあくまでもプライヴェートなものではないか、だから日本大使もプライヴェートで来る可能性がある、文化大臣もそのような気持ちで来ていただけないか? と返答した。
 レセプション当日の午前中、ザンジバルテレビに勤務する前述の元役場勤めの隊員(視聴覚教育)が、テレビ局のスタッフ2人と取材に来た。スタッフの渡航費・滞在費は協力隊持ちだと言う。しかし、飾り付けを行っている作家4人には一切取材をしない。わたしにも展覧会実現までは大変だったね、とねぎらってくれるだけで、機材を搬入すると夕方には戻ってくると言って市内に出かけていった。
 レセプションにはザンジバル文化省から、大臣以下7名が出席した。彼らは他の誰よりもビールや軽食をほおばっていたような気がする。また日本大使は出席できず、書記官2名と協力隊事務所から数名がプライヴェートで出席した。 
 そろそろ作家の自己紹介をしようと思った矢先のことだった。大臣がいきなりわたしたちの前に進み出てきて、それと同時にテレビ局の照明が大臣に当てられ、カメラがそれを追った。そして大臣はゆったりとした身ぶりでポケットから紙を取り出しスピーチを始めたのだ。4人の作家は自分たちの遥か雲の上の上司に畏れをなし、小さくなってしまった。またテレビ局はスピーチのあとも大臣を撮り続け、結局われわれには取材をかけずに帰っていった。そのためもあり、このレセプションの主役は大臣だったという印象を多くの人に残した。
 その日大臣は、2X2メートルの木版画の大作(300USD)を購入してくれた。しかし、あとでいくら文書で請求しても、購入の事実は認めるが支払いを待ってくれというばかりであった。そのうち、他の人間に買わせないようにリザーブしたのだという、非公式な口頭での見解が漏れ聞こえてきた(当然われわれは大臣が買うと言った作品以外の売上げの40%を文化省にすでに納入していた)。また、レセプションに出席した大臣以下の役人はダル・エス・サラームの高級ホテルに宿泊し、出張手当も当然付いていたのだった。その総額は展覧会を2度くらいできる額だったと思われる。
 展覧会はといえば、ダル・エス・サラームに新しくできた民放テレビ局や新聞社が好意的に紹介してくれたため盛況で小品が結構売れ、また協力隊のタンザニア事務所が大作を購入してくれたので赤字にはならなかった。

 

 1996年3月、ダル・エス・サラームでの展覧会に出品した作家の1人、ハシム・アブディが札幌国際現代版画ビエンナーレ展で受賞し、レセプションに招待され来日した。賞金は彼の月収の200倍だった。勤務先の文化省には病弱の母と本土に転地療養に出ると言って休暇を取ったという。また、それにあわせてわたしは落選した他の2人とハシムのグループ展を東京の3つの画廊で企画した。東京のタンザニア大使館に連絡を取り、大使館関係者(の日本人にも)に彼らの作品を見てもらいたかった。しかし、そのことでハシムが来日していること、彼が賞金を得たこと等がザンジバル政府に漏れるのを恐れて、念のため連絡は取らなかった(そのことでハシムの賞金がザンジバル政府に没収されること等を恐れたのは言うまでもない)。


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