聖書に関するQ&A

  Q.25 マルコ9:49の「すべてのものは火で塩気がつけられる」とはどういう意味ですか?

 Q.24 キリストの福音を一度も聞いたことがない人も、不信仰者と同様に地獄へ行くのか?


A.
この問題を次の2つに分けて考えます。

 1つは、キリストの福音を一度も聞いたことのないまま死んだ人々はどのような裁きを受けるのか。 

 2つ目はキリストの福音を聞いても信じなかった人々は、死後みな同じ裁きを受けるのか。


 そして、この問題を解くに当たって注意すべき点は、当然のことながら聖書に書いてある範囲内で考える事、そして聖書に書いてない領域に踏み込む事はできないことです。この聖書研究の原則は、次の聖句に示されています。

 
「隠れた事は我々の神・主に属するものである。しかし表されたことは永く我々と我々の子孫に属し、我々にこの律法のすべての言葉を行わせるのである」(申命記29:29)。

T.キリストの福音を一度も聞いたことのないまま死んだ人々はどのような裁きを受けるのか。
 ★この問いも次の二つに分けます。
a. キリスト教伝来以前の日本人のように、聞きたいと思っても聞けない状況にあった人々の場合

b. 聞こうとさえすれば聞けたかも知れないが、聞く機会がなかった人々の場合

a.キリスト教伝来以前の日本人のように、聞きたいと思っても聞けない状況にあった人々の場合

 ★フランシスコ・ザビエルが日本で伝道していた時、「当時の日本人入信者たちは、彼のもとに来て『キリストを信じない人々(彼らのすでに世を去った父母兄弟姉妹)がすべて地獄に落ちて救われないというのであれば、聖書の神デウスはあまりにも無慈悲というものではないでしょうか』と訴えておいおいと泣いた」と言われています(津山千恵著「フランシスコ・ザビエル」三一書房)。
 ★聖書は人の救いの道について何と言っているでしょうか。

 
「イエスは彼に言われた、『私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父(なる神)のみもとに行くことは出来ない』」(ヨハネ14:6)。

 「この人(イエス・キリスト)による以外に救いはない。私達を救い得る名は、この名を別にしては、天下の誰にも与えられていない」(使徒行伝4:12)。

 ★上記の御言葉からキリストを信じる他に救いの道がないことが分かります。ですから、主イエスは「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」
(マルコ16:15)と命じておられるのです。
 ★福音を宣べ伝える者がいなければ、福音を信じることが出来ないからです
(ローマ10:14〜17)

 ★しかし、キリスト以前のユダヤ人、つまり旧約聖書の人々が、来臨前のキリストを待望して救われたように、キリスト教伝来以前の日本人が、神と人の仲保者を待望することによって救われた人がいたかも知れないと考えることはできないでしょうか。み言葉の原則に従って考えると、全くあり得ないことではありません。
 ★その可能性はどの聖句から来るかといえば、

 「なぜなら、神について知り得る事柄は、彼ら(すべての人々)には明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:19,20)。

 「すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである」(ローマ2:14)。

 ★上記の二つの聖句から、聖書を持たない異邦人が被造物を通して唯一のまことの神を知り、その上で自分の心の中に刻まれた良心によってまじめに生きようとして、自分の罪に気づいて、神と人との仲保者を待望するなら、神がその人に仲保者キリストの存在を夢や幻のうちに示して下さることは、まったく在り得ないと言い切ることが出来るでしょうか。
 ★南米エクアドルのインディアン・アウカ族からの最初のクリスチャンとなった
ダユマという名の女性の話をネット上で見つけました。彼女の父は部族間の血の抗争や殺人を悲しみ、互いの赦し合いの必要を説いていました。そして彼女の父は、自分の罪を深く自覚しており、いつの日かアウカ族に神の救いの道を説く使者が遣わされることを預言していましたが、宣教師が福音を携えてやってくる前に世を去りました。ダユマはこの父の影響で宣教師から福音を聞くとすぐに信じました。
 ★神がダユマの父のような人に、死ぬ前に夢か幻によって救い主イエス・キリストを啓示し、彼が喜んで信じたという可能性はまったくないとは言えないと思います。

 ★しかし、このような事例は現実にあるとしても、何千万人あるいは何億人に一人あるかないかの特殊なまれなことであって普通の人は生来の良心で自分の罪を知っても、その罪の赦しを求めてまことの神のもとに立ち返ることはまずありません。
 ★従って、

「律法なしに罪を犯した者は律法なしに滅びる」(ローマ2:12)

とあるように、キリストの福音を聞くことなしに世を去った普通の人々は自分の罪のために裁かれ地獄へ行くのです。

b.聞こうとさえすれば聞けたかも知れないが、聞く機会がなかった人々の場合
 ★上記エクアドルのダユマの父のように人生を真にまじめに生きようとする人なら、自分の罪を知り、罪からの救い主の必要に気づいて、キリストの福音を自ら求めて聞く機会は、現代はいくらでもあります。
 ★聖書・キリスト教書・テレビ、ラジオの福音放送・インターネットによる情報等、現代は、その気さえあれば福音を聞く機会はいくらでもあります。

 
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)。

 ★心に霊的飢え渇きをもって福音を聞く人は、すぐに悟りキリスト者となることでしょう。
 ★現代においては、聞くチャンスがなかったという言い訳は通用しません。それは、ただ単に聞く気がなかった、求めなかった、つまり一度限りの人生を真にまじめに生きようとしなかったためにキリストの下に来なかっただけです。

 
「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その行いの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである」(ヨハネ3:20,21)。

 ★キリスト信仰による救いは、キリストにある神と信仰者との契約事ですから、信仰者の幼子たちは信仰を告白できずに死んでも親の信仰によって救われます
(使徒2:39)
 ★非キリスト者の善悪の判断がつかない幼子が死んだ場合、その子供が救われるかどうかについては、人間的希望的判断では救われる、としたいところですが、明確なみことばが見つかりませんので、神の御手に任せ、ノータッチとします。

U.キリストの福音を聞いても信じなかった人々は、死後みな同じ裁きを受けるのか。

 ★キリスト信仰者が天国、そして新天新地で受ける報いにもその人の信仰と行いによって、人それぞれ違いがあるように
(ルカ19:11〜27)、地獄の裁きにもその人の不信仰と悪行の度合いによって違いがあることが明記されています。

 
「主人の心を知っていながら、それに従って用意もせず努めもしなかった僕は、多く鞭打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないであろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」(ルカ12:47,48)。

 「それからイエスは、数々の力ある業がなされたのに、悔い改める事をしなかった町々を、責め始められた、『災いだ、コラジンよ。災いだ、ベツサイダよ。お前達のうちでなされた力ある業が、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。しかし、お前達に言っておく。裁きの日には、ツロとシドンの方がお前達よりも、耐えやすいであろう」(マタイ11:20〜22)。


 ★また、私達の主イエスは十字架の上で、ご自分をののしるローマ兵やユダヤの下級役人や民衆や一緒に十字架にかかった強盗共について、次のように祈られました。

 
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ23:34)。

 ★神の律法を知っているユダヤ人の指導者である、律法学者・長老・祭司長達の罪と、律法を知らないローマ総督ピラトの罪とを比較して、主はこのように言われました。

 
「私をあなた(ピラト)に引き渡した者たち(ユダヤの民の指導者達)の罪はあなたの罪より大きい」(ヨハネ19:11)。

 ★十分承知して故意に犯す罪と過失によって偶発的に犯された罪とは、旧約聖書の中でもはっきり区別されています。過失によって殺人を犯した人が、復讐者から身を守るための逃れの町がイスラエルの町々に用意されていました
(民数記35:9〜15)

 ★従って、仕事の多忙さにかまけて福音に心を向けることもなく一生を終えた人と、聖書をよく学び神の御心を知った上で意図的に聖書とその神を冒涜する学者や宗教家とが、同じ地獄に落ちても同じ裁きを受ける事はありません。意図的に故意に神とキリストを冒涜する者らは、はるかに重く厳しく裁かれます。
 ★世の終わりの日、キリスト者だけでなく非キリスト者も死人の中からよみがえらされます
(ヨハネ5:28,29)。キリスト者はキリストと同じ栄光のからだに(ピリピ3:21)、非キリスト者はその罪に応じた恥辱のからだに復活して(ダニエル12:2)、キリスト者は新天新地の永遠至福の世界へ、非キリスト者はサタンとその配下の悪霊のために用意された(ヨハネ25:41)火と硫黄の燃える池(黙示録21:8)に投げ込まれます。
 ★「私はそんなこと信じないから平気だ」という人に質問します。「あなたは自分の意志でこの世に生まれて来ましたか。そして自分の霊魂と身体を自分で造りましたか」。もし、「ハイ」と言える人がいるなら、その人は自分の意志で地獄を逃れることができます。「ハイ」と言えないなら、あなたは自分の意志で地獄行きの列車から降りることは出来ません。
 ★「信仰の問題は、後回しにしたい」と言うあなたに告げます。あなたにとって明日はないかも知れません。ことわざも言うように、「今日なしうることは明日に延ばすなかれ」です。

聖書
 
「私達はまた、神と共に働く者として、あなた方に勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、

『私は恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた』。

 見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」
                 (Uコリント6:1,2)。

キリスト紀元2007年 2月 10日公開




Q.25 マルコ9:49の「人はすべて火で塩づけられねばならない」とはどういう意味ですか?

 A. まず、この聖句が出てくる聖書のテキストを前後を含めて引用します。

 
47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入るほうがよい。48地獄では、うじが尽きず、火も消えることがない。
 49人はすべて火で塩づけられねばならない。 50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味が抜けたら、何によってその味が取り戻されようか。あなた方自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい」。 マルコ9:47〜50


 
T.マルコ9:49直前で聖書が語っていること
 ★キリストを信じる小さい者の一人をつまづかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれたほうがましである。
 ★だから、あなたの体の一部分であっても、自分に罪を犯させるものは切って捨てなさい。五体満足で地獄へ行くより、身体障害者となって天国へ行くほうが良いからだ。
 ★地獄では、そこに落とされた者たちを永遠に悩ませ苦しめ続けるウジ虫と焼き尽くす火とが無くなることがない。
 ★こような話の流れの中で、「
人はすべて火で塩づけられねばならない」のことばが発せられています。

 U.
人はすべて火で塩づけられねばならない
 
a.人と火
 1.信仰の試練は火の試練とよばれる

 ★旧約聖書の人物ヨブは数々の試練を通して信仰を鍛えられ、金が溶鉱炉で錬られて純金に変えられるに等しい体験をしました
(ヨブ23:10)。信仰の試練は「火の試練」とも呼ばれます(Tペテロ1:7)

 
「こうして、あなた方の信仰は試されて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れる時、賛美と栄光と誉れとに変わるであろう」。
(Tペテロ1:7)

 ★キリスト者は神の国に入るためには多くの苦難の道を通らなければなりません
(使徒14:22)

 2.人は火である神の言葉と聖霊によって清められなければならない
 ★神の言葉も聖霊も聖書の中で火にたとえられています。

 「主は仰せられる、私の言葉は火のようではないか。また、岩を打ち砕く槌(つち)のようではないか」 (エレミヤ23:29)

 「また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした」
 (使徒2:3,4)

 ★私たちキリスト者は、日々み言葉に親しみ、御霊によって祈って行くうちに清めの道(聖化)を進み、キリストにある新しい人として清められて行きます。

 
3.人は天の御国に入るためには、時には自分の手足を切り捨て、自分の目をえぐりだすような苦悶の道も通らなければならない
 ★旧約時代のイスラエルの指導者(士師)の一人だったサムソンは愛人デリラの誘惑に負けて、聖霊の賜物であった奇跡の怪力の秘訣を彼女に明かしてしまったため敵のペリシテ人の手に捕らえられ、両目をえぐり取られ、敵の大観衆の前に引き出され、なぶりものにされました
(士師記16:4〜31)
 ★彼サムソンは、悔い改めて天の御国に入るために、ナジル人としての長髪と聖霊の奇跡の賜物としての怪力だけでなく両眼を失いました。
 ★世の終わりの裁きの日に、世の多くの人々と一緒に裁かれ、硫黄の燃える火の池に投げ込まれないために、私たちキリスト者は、地上に生きている限り自分の中に宿る肉の欲と戦い、日々祈りのうちに己が古き人をキリストの十字架と共に磔
(たく)殺して行かねばなりません。

 
「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしましなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。

 「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」 
(ガラテヤ5:24)

 「それから、イエスはみなの者に言われた、『誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従って来なさい』」 
(ルカ9:23)

 ★サムソンがデリラと言う名の肉欲を、自分から切り捨てなかったために、彼は敵の手によって自分の両目をえぐられるという激痛と辱めを味わいました
(士師記16:4〜31)
 ★私たちも、自分の救いの道を妨げる自分自身の中にある罪を犯させる何ものかの存在に気づいたなら、その時点でただちにその邪魔者を自分の中から切除しなくてはなりません。
 ★がん細胞は早めに切除しないと、増殖を続け命取りになります。
 ★何十年の昔、キリストのこの言葉を文字通り実行して、片手を失った人の話が新聞の海外のニュース欄に出ていました。この言葉を文字どおりにとらえて、実行していたのでは、人は何本手足があっても足りないことでしょう。
 ★使徒パウロは、自分自身の信仰修行について、次のように言っています。

 「すなわち、自分の体を打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、他の人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」。 (Tコリント9:27)

 ★旧約聖書は断食を「身を悩ませ苦しめること」
(レビ16:29)と表現していますから、パウロが信仰修行の一つの手段としたのは断食だったと思われます。

 b.人と塩

 ★主イエスは「あなた方は地の塩である」と弟子たちに言われました
(マタイ5:13)
 ★旧約聖書の中で、神への捧げものには「塩」を添えて捧げることが教えられています。
 ★塩は神と人との平和の契約のしるしであり、捧げものをきよめるしるしでもあります。
 ★塩は食物の腐敗を防止し、味をつけ、人の命と健康を維持するために欠かせないものです。
 ★「あなた方自身のうちに塩を持ちなさい。」と言う主イエスの御言葉は、塩のもつこのような特性を私たち自身も世の人々の中で発揮し、人と人、人と神との間に平和をつくりだす人となれ、との御心を言い表したものです。
 ★また、キリスト者が持つべき塩味とは、み言葉と共に働く聖霊によって、信仰の年齢を勤勉・誠実に重ねて行くことによって結ぶようになる聖霊の実のことであるとも言えます。

 
「御霊の実は、愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」 (ガラテヤ5:22,23)

 ★内面にキリストの塩味をもつ者は、発することばにも変化が生じます。

「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、一人ひとりに対して、どう答えるべきか、分かるであろう」 (コロサイ4:6)

 ★やくざ者が回心してクリスチャンになるケースがたまにありますが、その信仰が本物であれば、その人はやくざの生活から完全に足を洗い、その性質・人柄も人によって違いがありますが、ある人は一変し、別の人は徐々に変わって行きます。
 ★キリスト者は生涯をかけて、キリストに似たクリスチャン品性を涵養して行かねばなりません。
 ★「救われるためには、イエス様を信じるだけで、後は何もしなくてもいいのだ」と言っている人たちがいますが、大間違いです。聖書はそのようなことを教えていません。バプテスマのヨハネも主イエスも「悔い改めの実を行いで示しなさい」
(ルカ3:8黙示2:5)とそのような人々を戒めています。

 ★48節の「地獄では、うじが尽きず、火も消えることがない」と言うことばは、口語訳では、44節と46節それにこの48節と三回繰り返されています。ただし、44,46節はカッコ付きで出ています。新改訳は、44,46節を省き、48節だけを訳出しています。これは、信頼できる聖書の写本の中には44,46節を省いたものがあることを意味しています。しかし、キング・ジェームズ版には3節とも訳出されています。また、マシュー・ヘンリーら昔の聖書註解者は、この言葉の3回の繰り返しは、重要な警告であるとしています。
 ★この48節はイザヤ書66:24からの引用でもあります。

 
「彼らは出て、私に背いた人々のしかばねを見る。そのウジは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人々に忌み嫌われる」 (イザヤ66:24)

 ★私たちは、この地獄の警告標識をいつも心の片隅に銘記しつつ、天国への旅路を歩んで行きたいものです。



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キリスト紀元2007年 3月 10日公開


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