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思考様式の問題


 思考様式の問題はかつて僕の問題のひとつだった。どう思考するかを捉えれば、その人の考え方が捉えられるというのは自己矛盾のようだが、しかし僕は真面目にそう考えた。つまり、人がとうとうと自分の考えを述べるとき、なぜその人はこういう考えしか出来ないのか、あるいはなぜそう考えるにいたったのか、それを探り、その人の考え方の様式を把握すれば、その人を捉える方法として有効なのではないかと思ったのである。他者と自分というのは、いつでも人である限り、重要な問題だ。

 思考を様式の面から客観的に捉えようとする考え方がその頃は少なかったと思う。

 しかしそれもはるか昔だ。コンピューターの発達により、思考様式は重要な関心点になったし、デジタル的に捉えれば、人の考え方は裸になり、反応を的確に捉えられる。少なくともそう考えられ、よく調べていないのではっきりは知らないが、今はプログラムされているようである。つまり、有効な考え方であると思われているらしい。

 たとえば、人の思考上の反応を確実に予測できれば(!)、いろいろな分野に応用できる。

 僕にはこうした研究を進める時間はないのでこれくらいにしておく。

 

 僕が最初目指したのはそういうことではなかった。教育学者なり一般の思想家なりが問題に対してどう考えるかを確実に予測(!)し得るための理論を構築しようとしたのである。そうすれば、様々な考え方を客観的に把握できると思われたのである。むろん、それは若気の至りであり、簡単になし得ることではなかった。生活が先だったのである。

 しかし、目指した方向は今でも間違っていたとは思わない。

 

 人の精神がそうである前に、人の肉体はもっと原始的に機械的であると言われる。しかし僕は肉体には関心がない。人の精神の働きを確実に把握することが最初の目標であった。

 大まかに言えば、精神は快不快を基にし、それを感情とし、像をつくり、意識し、概念とするのだとフィヒテは述べている、と僕は理解している。つまり、精神は感性を根本とし、それを概念に作り上げる構想力という能力である。この構想力の多い少ない、あるいは質の違いが、精神面から見た場合の人間ひとりひとりの違いになる。

 人は様々であり、等しくない。だからお互いに持ち味を出し合って、社会を形成する。

 そのとき、お互いの交流の中に、教える、学ぶという働き、行動がある。それを研究するのが教育学である。人間相互の観点から研究するときには社会学となる。利益・利潤の観点から研究するのが経済学である。言葉から研究するのが文学である。概念・考え方から研究するのが哲学である。と言った具合に、人は学問の分類をし、研究を進めてきた。

 人の精神が人の精神を研究するのだから、矛盾を内蔵しているようだが、なに、自己自身を知るのが学問の目的であると昔の誰かは言ったらしい。人は前向きに生きる動物らしく、人間は確実に進歩はしている。少なくともそう思わなくてはやっていられない。そこが物質の研究である科学や肉体の研究である医学と違い、つらいところである。

 


 高樹のぶ子は「人間は感情的な存在」という(日経産業新聞2002年1月10日22面)。感情的というのは、快不快を判断基準にするということと思われる。


(関連テーマ)

感性について

 

 2002/03 報道によれば、日産マーチは感性を数値化するルノーのノウハウを使って開発したとのことである。

 

感性をソフト化するなどの試みは、たとえば、

A.G.I.   http://www.agi-web.co.jp/

がある。

「 感性判断(脳の役割)
→センシビリティ・テクノロジー(ST)技術
・自社開発技術
◆ST基本部分技術(感性判断部分)
◆ST接続入力部分技術
◆ST接続出力部分技術 」
 (同社のホームページによる)
つまり、感性をコンピュータでコントロールすることが出来るようになってきたということである。
 
また、報道によれば、先に発表されたソニーのSDR―4Xも感性判断および対応が出来るとのことなので、
同種の考え方に基づいて開発したソフトを使っていると思われる。
 
 
 

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