世界文学大全集「読まんでよい」第一回配本 

ダンテ「神曲」


ここんとこも別に読まんでよい。

「神曲」は小説とか戯曲じゃなくて詩篇という形態で書かれたものだ。つまり朗読されるのを目的に書かれたものなのだが、なんでかっつーと、この14世紀にはまだ印刷技術が発明されてなかったのだな(木版はあったが)。本は手で書き写したものだったし、だいたい字を読める人間だってごくごく少数しかいなかった。だから字の読める奴が皆の前で読んで聞かせるとかやってたんだろう、たぶん。

というわけで、詩だから原文だと韻律もちゃんとある(らしい)のだが、この原文がトスカナ語というローカルな言語だった。ダンテの母国語なのだが、ダンテが世界史の授業のルネサンスんところで出て来るのは、これがひとつの理由でもある(ような気がするけど違うかもしれない)。書物、文芸と言えばラテン語オンリーという時代の中で、日常に即した言語を使うことでいろいろといろいろなことがいろいろあって、そのへんのいろいろがダンテをしてルネサンスの先駆け的存在と言わしめる素因なのであるな。

でもまあ、そんなことはどうでもよくて、作品としてどうなのかと言うと、とにかくまず読みにくい。訳文のせいか、原文からしてそうなのかはよく分からん。詩だから誰かに朗読でもしてもらえば違うのかもしれない。太田光とか。違うか。「神曲」は「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部構成で、それぞれ間をおいて書かれてて、「地獄篇」から最後の「天国篇」が書き上げるまで15年くらいかかってる。ダンテはその後何年かして死んじゃう(1321年56歳)んだが、完成させてよかったのか悪かったのか。要するにはっきり言って「天国篇」ってつまんないんだよな。「地獄篇」はそれなりに面白くないこともない。妙にディテールの細かい地獄の描写とか、罪人への私怨を剥き出しにしたいたぶり方とか、ダンテの悪意で創造力にターボがかかっている。しかし「煉獄篇」はそれの焼き直しだし(煉獄って罪人が天国へ入るまで罪を浄化する待合場みたいなものなので、作中の描写はミニ地獄みたいにスケールダウンしているだけ)、「天国篇」はダンテ自身が天国を具体的にイメージできないせいか、天界そのものの描写に乏しく、キリスト教的世界観の物理的説明に終始している。もっともそう見えるのはこっちの頭が悪くて理解できないだけかもしれないが(と言いつつあんまりそう思ってない)。

なにはともあれ「神曲」は宗教特有の独善的な価値観とダンテの攻撃的な人間性の程よいブレンドのおかげで、全体を通して「思い上がり」とか「ひとりよがり」とか「牽強付会」とかという高慢さが満ち満ちており、お前は何様のつもりだ! もう少し謙虚になれよ! と言いたくなるような作品である。ついでに言っとくと「神曲」の(あるいは「新生」という作品でも)ヒロイン的存在であるベアトリーチェは、ダンテの一方的な初恋の相手で、でも他人に嫁ぎおまけに若死にしてしまった人なのだが、とことこん粘着質のダンテは彼女を美化しまくったあげくに聖女に祭り上げている。こういう奴ってちょっとしたきっかけで逆に相手への誹謗中傷に走ったりするんだよな。本物のストーカーだよ。ベアトリーチェだって「ダンテ? 会ったことだってちょっとしかないのに、かってにあたしのことばっかり書いて、あげくに天国まで追いかけて来るなんて、キモチ悪い人」と思ってるに違いないね。

「神曲」は力作だとは思うよ、そりゃね。でもわざわざ読まんでよい


世界文学大全集 「読まんでよい」
第二回配本・メルヴィル「白鯨」


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