99.05.05

 

白山神社紀行〜千葉・君津/木更津〜

 

中大兄皇子ゆかりの地を訪ねる旅・飛鳥紀行に続く第2弾は、千葉県木更津付近の白山神社編です。

白山神社と聞いてもぴんと来ないかもしれません。ここはじつは、中大兄皇子の子・大友皇子の墓(古墳)があると伝えられるところなのです。大友皇子といえば、壬申の乱で叔父(中大兄の弟)の大海人皇子と天皇位をめぐって戦い敗れ、山前の地で自害したことになっています。山前(やまさきと呼びます)には諸説あるのですが、最後の戦いの地・大津市唐橋付近から遠くないところと推察されています。つまり琵琶湖沿岸から京都のどこか。

その大友皇子の墓がなぜ、千葉県にあるのか? じつは、千葉県君津市俵田には、古くから「弘文天皇落去伝説」(弘文天皇とは、明治になってから大友皇子が即位したとしてつけられた諡号)が残されているのです。『君津郡誌』にあるそうです。


以下、わたしが参考にするのは、網野一彦氏の「房総路に伝わる大友皇子伝説」という論考です。歴史雑誌に掲載されていたものですが、コピーしか手元にないため、誌名・号数はわかりません。ごめんなさい。網野氏は千葉市立松ケ丘中学校教諭とあります(当時)。
誌名・号数は、新人物往来社 歴史読本臨時増刊「古代天皇家血の争乱」(83年12月増刊号) です。#情報多謝


弘文天皇落去伝説

『日本書紀』では、大友皇子は最後の決戦に敗れ、山前というところに身を隠し、自害します。またその首はただちに大海人皇子のもとへ運ばれ、首実検されます。

弘文天皇落去伝説では、大友皇子は山前では自害せず、ひそかに逃げたことになります。また首実検された首も、偽の首ということになります。

大友皇子がその後辿った足取りは、琵琶湖沿岸から瀬田川を下り、難波へ至り、そこから海で尾張国矢作伊豆国下田相模にたどり着き、最後は上総に渡り、津浜(富津市)に到着した、というものです。津浜から陸路で矢那(木更津市)へ、そして小櫃川を遡り、君津市俵田付近に御所を築いたとします。その御所のあとに建ったのが田原神社で、それが現在の白山神社ということです。

尾張の矢作にも東大友・西大友という地名が残されていて、大友皇子を氏神とする神社があるなど、間接的ながらこの伝説を裏付けるような証拠が各地に残されているうえ、『日本書紀』でも、大友皇子自害のあと約1ヶ月間の記事がなく、不破にいた大海人皇子が不破を発ったのは自害後約50日経ってから。なぜこんな空白があるのかといった疑問は残ります。そんなところから、この伝説がただの伝説とも思えないのです。

なお、この伝説に基づいて書かれた小説が豊田有恒『大友皇子、東下り』です。


大友皇子の最期

大友皇子が上総で御所を築いたことは、いずれ大海人皇子(天武天皇)の耳に入ったでしょう。大海人皇子にとってはなお、じぶんを脅かせる存在である大友皇子は、何としても廃さないとなりません。多数の軍勢を送ります。大友皇子の手勢は数でかなわず、大友皇子は、死を覚悟して腹を切って自害します。白山神社の近くの御腹川は、それでこの名がついたといいます。

また、白山神社は久留里線の小櫃駅と俵田駅の中間くらいにあり、近くに小櫃川が流れているのですが、この小櫃という地名は、大友皇子の遺骸を納めた櫃に由来するとも言われています。

小櫃を訪れよう、と考えたとき、地図で調べたのですが、木更津・君津・富津のあたりには「馬来田(まぐた)」「鎌足」など当時を偲ばせるような地名がいくつかあり、不思議な感じがしました。

もしかしたらほんとうに、大友皇子は上総の国まで逃げ延びたのかもしれません。


大友皇子の最後の地は、房総だったのか――と思いをはせつつ、白山神社周辺を見に行きました。今回はそのときの写真をご紹介します。こちらからどうぞ。

 


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