00.02.11

中大兄皇子はいまどこに

〜山科御陵〜

 

中大兄皇子=天智天皇は、671年12月になくなりました。『日本書紀』では数ヶ月前から病床にあり、病気により死んだということになっています。ところが、『扶桑略記』には、中大兄皇子は馬で山科に行き行方不明になり、そのまま戻らずなくなった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った旨の伝承が収められています。

この伝承を真実とすれば、中大兄皇子は病気ではなく(馬で山科へ行けた)、山科で何らかの事由があって命を落としたということになります。そこから、山科で暗殺されたのだという中大兄皇子=天智天皇暗殺説を唱える人もいます。同時に、ほんとうに山科の御陵に天智天皇が埋葬されたのかわからないことになり、そもそも山科の御陵が天智天皇の御陵だかわからないという意見にも発展します。

わたしはすなおに山科の御陵が天智陵だと思ってきましたから、こういった説を知ったとき、ショックを受けました。

先日、わたしは森浩一氏の著作を読みました。その著作は『古代日本と古墳文化』(講談社教養文庫):

天皇陵古墳については、陵墓参考地を含め、墳丘観察という考古学の基礎研究も一切認められておらず、そのことも図上の検討はさておき陵墓研究を約百年間停止した形になり、最近の中国などの動向にくらべ、いちじるしい立ち遅れを感じるけれども、私は御廟野古墳(天智陵)と野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)の二基は、まず現在の指定でよいと考えている。だが、御廟野古墳が天智天皇の死後の、どの時点での造営かについてはまだ定説がなく、細かい年代の基準にはなりにくい。

天智天皇陵についてだけまとめると、(1)現在天智天皇陵とされる、山科の御廟野古墳は天智天皇陵と考えてよい(2)しかし、いつ造営されたかは不明である、ということです。

これを読んで思わず「ほっ」としました。やっぱりあそこが天智天皇の最後の場所なのだと、思えたからです

山科御陵は、閑静な住宅地のなかにあります。訪れるとまず迎えてくれるのが、日時計。これは日本ではじめて時計(漏刻ろうこくという水時計)を設置した天智天皇にちなんで設置されたもの。敷地に入ると長い長い参道が迎えてくれます。木々が繁り、周囲とはまさに切り離された空間になります。

参道は中ほどから少し上り坂。そして両側の木々が切れると、目の前に御廟の門と厚い森に覆われた丘が広がります。天智天皇の御廟所です。もう、周囲とは完全に切り離された世界。

御廟の直前は砂利が敷き詰められ、手入れされた木立もあります。そういえば、長い参道もきちんと掃除されていました。丁重に守られているのです。御廟の脇には詰め所もありました(宮内庁職員の詰め所ですが、最近は常勤ではないようです)。

長い参道から入口に戻ると、地元の町内会の方が数人で日時計の手入れをしていました。風雪にさらされているために刻んだ文字の色が落ちているのを直していたのです。

御陵は日常を超越し、時の流れさえ越えたような存在ですが、いっぽうでこうして周囲の人々の生活のなかで守られているのだと実感しました。そうやって永い時を刻んできたのだと。そう感じたとき、ここがほんとうに天智天皇の、中大兄皇子の眠る場所であってほしいとわたしは思ったのです。

 


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