読後感:
自分の体験や感情で思うところ、感じる所を記しているのか、それとも仮想の世界のことか? 127万部のベストセラーとか、世の中にはこの感覚がごく当たりまえに流れているのか、そんな自分を感じ、共感して惹かれたのか? 最年少での芥川賞というのも興味を誘ったのだろう。以前図書館でチェックしてみたら予約が多すぎて諦めた。今はそれもなくなり読めた。読んでみてこの感覚は現世にピッタリではなかろうか。
自分自身も例えば休憩時間の長いこと、手持ちぶさたで、休憩などなくどんどん続けて講義でも授業でも始まってくれぬかという感覚の人間。
周囲にとけ込めないでいる自分を見るようで、安心感を感じたり、情け無く感じたり。
しかしこの作品、グループを作る仲間に入れないでいる感覚の表現が実にまとをいていて、鮮やか。
にな川君の行為、行動もこんな男にはなりたくないと思いつつ、ちょっぴり優しい面もあるところ、周囲に迎合しないところは素敵な生き方かも。
一つの作品だけでは著者の実力ははかり知れないので、別の作品も読んでみたいと思い、デビュー作「インストール」(2001年17歳で発表、文芸賞受賞)そして「夢を与える」(2006年発表)を読んでみた。
高校生で書き出し、ほぼ実体験的なものをベースに2冊目まで書かれ、3冊目はかなり芸能界という違った世界を取り上げている。
「夢を与える」の内容は共感を覚えるようなものではないが、今後の作品が期待できる楽しみな作家になるような予感である。
「インストール」は女子高生が小学生に、自分の駄目になったと思ったコンピュータをあげたことから、風俗のチャットのバイトに関わり、ひとときのおとなの世界を体験する話。登校拒否児でも明るい女子高生の姿は「蹴りたい背中」のハツとはちょっと異なるところが良い。
「夢を与える」では一転、通販カタログのチャイルドモデルから半永久の“生きているCM”契約をとり、さらに芸能界に進んだ夕子だが“人に夢を与える”自分を目ざしているが近親者しか接することのない芸能界で自分の人生を生きたことで多くの人を裏切ってしまう夕子の姿はテレビ界からはもう見放されていく。かなり大人の世界を描いている。
印象に残る言葉:表現がいかにも現代感覚にマッチしている(?)
◇絹代がハツを仲間に入れに誘いをかける場面:
「絹代。」「何?」
「一人でしゃべってると、何をしゃべってても独り言になってしまうんだよね。当たり前だけど。で、それなりにみじめというか、なんというか。」
「分かる分かる、想像するだけできつそうだもん。だからさ、私と一緒にあの子らと仲間になればいいんだってば。ほら、トランプ。」
「駄目。二人でやっていこう。」
「遠慮しとく。」
頭の尾っぽを振りながら、絹代は机を囲んで大騒ぎをしている雑草の束のもとへ走っていく。どうしてそんなに薄まりたがるんだろう。同じ溶液に浸かってぐったり安心して、他人と飽和することは、そんなに心地よいもんなんだろうか。
◇絹代がハツに「一緒に上映見よう。」と誘う場面:
絹代の横に坐っている吹奏楽部女子も、立ったままの私を見上げて、親しみやすい笑顔でもって迎えようとしている。・・・うちのクラスの長谷川初実っているでしょ。あの子中学の頃友達だったんだけど、まだうちのクラスになじめないみたいで可哀想だから、うちらのグループ入れてあげてもいい?って、こんな感じだろうか。冗談じゃない。
空けられたスペースに坐らずに、輪を回避して後ろに続いている列に並ぶと、絹代は、なんでー、と不服げな声を出した。でも私に近寄ってきたりせずに、輪の中にとどまったままだ。吹奏楽部の女子がわざとらしく絹代の肩を抱き、なぐさめる。絹代は穏やかな大人っぽい表情になり、何やら深く頷いている。寒気がした。毎時間の休みを一緒に過ごし、毎日お弁当を一緒に食べ、共に受験した友達が、私を、新しくできた友達とより友情を深めるための道具にしている。
◇絹代と仲間のことについて:
「私は中学でもうこりごり。仲間とかは。」
「極端すぎるんだよ、ハツは。グループと深く関わらなくても、とりあえず一緒にいればいいじゃない。」・・・
「ハツは一気にしゃべるでしょ、それも聞いている人間が聞き役に回ることしかできないような、自分の話ばかりを。そしたら聞いている方は相槌しか打てないでしょ。一方的にしゃべるのをやめて、会話をしたら、沈黙なんかこないよ。もしきてもそれは自然な沈黙だから、全然焦らないし。」
絹代は諭すように語る。人間とのコミュニケーションの仕方を同い年の友達から習うというのは、それこそ耳をふさぎたくなるほど恥ずかしい。
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