こころに残る表現:
かすみ草のおねえさんより
◇かすみ草のおねえさん
高校一年生のとき、あこがれていた先輩が明日卒業するというとき、はじめて花を買う。
「あの、明日卒業式なんで、その、先輩に花束を、と思って・・・」と。バラを見つけ、花屋のおねさんは、「あっわかった、あこがれの人なんでしょう。今日まで告白できなくて、いよいよタイムリミットなんだ」
「バラがいいの?」私の視線をたどって、おねえさんが言う。
「は、はい、それを三本ください」これを言うには、かなり勇気がいった。(せっかくだから千五百円ぐらいはふんぱつしようと思っていた。バラは一本四百円もした。)
おねえさんは三本のバラを抜きとり、みごとな花束を作ってくれた。白い小さな花をまわりにたくさん配して、きれいなリボンを結ぶと、三本のバラが、きゅっとひきたつ。その白い小さな花が「かすみ草」という花で、立派な売り物だということを知ったのは、だいぶ後になってからのことだった。
◇ロサンゼルス
時間の流れ方が、東京のとはずいぶん違うなあと思う。
ゆっくりなのだ。着いてしばらくの間は、何がどうというふうに、とうまく言えなかった。が、こんな大都会であるのに、どこかしらのんびりしている。
それは、大変ささいなことではあるが、人々の「間」からきているのではないかと気づいた。横断歩道を渡りはじめると、かなり距離があるにも拘わらず、曲がらないで車が待っていてくれる。そこで思わず小走りになってしまう私。私には「間」がない。
ホテルのエレベータには「閉」のボタンが見あたらない。乗り込むと、一秒でも早く閉めようとする習慣がついてしまっている自分。
101個目のレモンより
◇私の好きな一句
去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
暮れから新年にかけては連続した時間であるが、ひとは新年になると、新しい扉が開かれたとか、時代の幕開けとか言われたりする。つまり多くの人は「去年」「今年」という語のあいだには、それを貫くものよりも、むしろ段差や区切りを感じている。
けれど去年と今年とは、実は棒のような何かによって、力強くくし刺しにされているのだ。虚子は年の変わり目に、段差ではなく連続を見出した。
除夜の鐘で、煩悩を葬(ほおむ)ったつもりになっても、それらから解放されることは、決してない。あのたくましい鐘つきの棒に、毎年私は、虚子の句を重ねて見ている。
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