高村 薫著 『 李歐 』
                          
 

                
2015-05-25





   (作品は、高村 薫著『 李歐 』  社による。)

         
 

 初出 1992年3月刊行(講談社)された「わが手に拳銃を」を下敷きにあらたに書き下ろしたもの。
 本書  1999年(平成11年)2月刊行。


高村 薫:(本書より)

 1953年、大阪に生まれる。国際基督教大学を卒業。商社勤務を経て、‘90年「黄金を抱いて翔べ」で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。‘98年「リヴィエラを撃て」で日本推理作家協会賞、「マークスの山」で直木賞を受賞。’98年「レディ・ジョーカー」で毎日出版文化賞を受賞。他に「神の火」「わが手に拳銃を」「地を這う虫」「照柿」「晴子情歌」、最近著に「新リア王」などがある。

主な登場人物:

吉田一彰(かずあき)
(22歳)

1960年3月世田谷の公務員住宅を母と出奔、大阪の姫里に、5才の時。アパートのすぐ側に守山工場。工場に出入り従業員(朝鮮人、中国人)とも可愛がられる。
母はその中の男と駆け落ちする。以降施設に。15年ぶりに守山工場を訪れる。

李歐
=后光寿
色んな名前を持つ。

香港のシンジケートーの殺しや。大陸出身。見る者を狂わせる容貌で多才の持ち主。
守山工場にいたこと有り、一彰を見ている。
キタの新地の会員制高級クラブ「ナイトゲート」で陳浩ほか5人を射殺。一彰は寥(リャオ)から手引きをさせられる。

守山耕三
娘 咲子

大阪姫里の機械加工部品を扱う守山工場の主。大陸出身、戦争経験から外国人を雇っている。秘密の品物を扱っていたり、一彰の母のことにも負い目を持つ。警察の監視対象者。
笹倉との付き合いは20年にも及ぶ。

趙文礼
=陳浩

守山工場で働いていた男。一彰の母と駆け落ちした相手。
台北で銀楼を営むビジネスマン。
中国に浸透していたCIAのスパイ?

(リャオ) 金貸し。守山工場に雇われていた7人の外国人の一人。
笹倉文治

大陸育ちの貿易商。東南アジアから材木を輸入原木や木材に隠して拳銃を密輸したり。
若い世代の肥やしになるのが道と資産も事業も全部整理して后光寿に投資。后光寿に惚れて支える役割を。

川島 キタ新地のクラブ「ナイトゲート」のマネージャー。警察の犬?
田丸 大阪府警本部の公安刑事。
原口達郎 刑務所で一彰と知り合う。出所後笹倉の商売を引き継ぐ。

橘敦子(あつこ)
(30代半ば)

大阪大学文学部の助教授。夫は工学部の万年助手。
一彰(夫の大学の研究室に通う大学四年生)と付き合っている。

房子 ミナミのバーのオーナー。一彰の雇い主。頻繁に覚醒剤を打っている。

物語の概要:(図書館の紹介記事より)

惚れたって言えよ―。美貌の殺し屋は言った。その名は李欧。平凡なアルバイト学生だった吉田一彰は、その日、運命に出会った。ともに二十二歳。しかし、二人が見た大陸の夢は遠く厳しく、十五年の月日が二つの魂をひきさいた。『わが手に拳銃を』を下敷にしてあらたに書き下ろす美しく壮大な青春の物語。

読後感: 

『わが手に拳銃を』は以前に読みかけて投げ出したような気がした。それから高村薫のほとんどの作品を読み、特に「晴子情歌」「新・リア王」「太陽を曳く馬」さらに最新刊の「冷血」を読んで後本書を改めて読んでみて、その高村薫の世界を彷彿とさせている描写に懐かしさを感じ、びっしりと書き込まれた行をつぶさに読むことに感動さえ覚えた。

 内容は主人公の吉田一彰なる人物は好青年でもなく、むしろ悪に染まっているとも言えるが文中表現されているように“きれいな毒蛇。おとなしいが、なつきもしない。最後は咬みつく”に相応しい人間。そして悩むことの多い人間。時に行いは人情的でどんと腹の据わったところもありと高村文学によく出てくるところの人物である。

 もうひとつ惹かれるところが舞台が大阪のキタであるということ。いかにも大阪の雰囲気が醸し出されていて、自分が中学時代に通り過ぎた場所であり、環境であったのが大きい。

 とはいえ、悪人とも言える李歐という香港のシンジケートーの殺しやといわれる22歳の同い年の男との友情(?)なのか生き様なのか“大陸に連れて行ってやる”という約束に5,6歳の頃に馴染んだ小さく貧しい守山工場でのふれあいが、大人になって再び交流の火を再燃させ、工場主の秘密を知り、自分も機械いじりが好きになり工場の庭の桜が咲く時期になると近所を含め宴会を催すことが基盤になっていると思われる。

 読み終えてみて一彰と李歐が互いに何に心を通い合わせたのか、一彰と守山工場の主である守山との心の通い合い、一彰と守山の娘咲子との夫婦になっての心の通い合い、李歐と笹倉文治との心の通い合い、一彰と田丸との通い合い、どれをとっても読み終わった後も胸にずっしりと残る感じはどの高村薫作品も同じだ。

印象に残る描写:(高村文学の断片)

(李歐という名前を教えられ、ひとつ金儲けをしようと笹倉の密輸拳銃を横取り計画の話をされた一彰の胸の内)

 一人残された一彰は、所在なく台所を見渡し、食卓の椅子に座り直したところで、いったい自分は今、正確にどこにいるのだろうと自問してみた。今度こそ真正の悪の戸口にいるのか、少しばかりの善意と好奇心の狭間にいるのか。あるいは、生まれて初めての友だちという子供じみた戸惑いの中にいるのか。あるいはまた、これまで知らなかった何かの欲望の戸口にいるのか、と。

 その一方では、なおも感嘆が止まらないまま、棒のようだった自分の身体一つに、潮が満ちるように熱が充満していくのを感じ、まるで発情しているようだと思った。激情でも興奮でもない,隠微な線香花火の大群のような熱が、チリチリ、チリチリと臓腑を炙りながら広がっていき、残り少な意思や理性が次々と燃え落ちていくたびに、名付けようのない喜悦や、興奮のおののきが走る。そのくせ胸は締めつけられていて、嬉しいのか切ないのか、自分でも分からないのだった。

 そして、いずれにしろこの先にあるのは破滅しかないはずだという最後の理性の声を聞きながら、一彰はなおも茫洋として熱に煽られ続けた後、自分が今立っているのは、多分歓喜というやつの入口だと思い至った。
 李歐という歓喜。暴力や欲望の歓喜。友だちという歓喜。常軌を逸していく歓喜。

  
余談:

本作品の下敷きという『わが手に拳銃を』とどのように違うのか、以前に投了したのとどんな風に違うのかを見比べてみたい気がした。自分が変わったのか、内容が違ったのか興味の湧くところである。 

 背景画は、作中にもあるオートマティック拳銃ベレッタM92のフォト。