高村光太郎著 『智恵子抄』

                   
2006-05-25

(作品は、高村光太郎著『智恵子抄龍星閣 による。)

     


 智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。
 等
幾つかの詩の断片はよく知られている。しかし智恵子の半生を知って詩を読むと、なんとその情景がひしひしと伝わってきて思わず涙が出てくる。

 真っ赤な厚手の表紙、中央を中心に上下に余白をとった文章構成、詩は余白を充分にとり、文字のサイズを大きくして見やすい構成。手元にずつと残しておきたい一冊である。

特に感銘を受けた詩:

  レモン哀歌

  そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとつた一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

  トパァズいろの香氣が立つ
  その數滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱつとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
  わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
  あなたの咽喉に嵐はあるが

  かういふ命の瀬戸ぎはに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まつた
  写真の前に挿した花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置かう


 智恵子の半生:

・福島県二本松町の近在、漆原といふところの酒造り長沼家に長女として明治19年に生まれる。
・土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大學校家政科に入學、寮生活をつづけているうちに洋畫(ようが)に興味を持ち始める。

・太平洋繪畫研究所に通學、油畫を學ぶ。
・長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。明治四十四年の頃。私は明治四十二年七月にフランスから歸つて來て、父の家の庭にあつた隠居所の屋根に孔をあけてアトリエ代りにしそこで彫刻や油繪を盛んに勉強してゐた。
・大正三年、私と結婚。両親の反対を押し切り、まったく裸のままの家庭を持つた。

・結婚後も油繪の研究に熱中していたが、藝術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸く多くなり、その上肋膜を病んで以來しばしば病臥を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡ひ、つづいて實家の破産に瀕するにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。
(實家の破産、二本松町の大火、實父の永眠、相続人の遊蕩(ゆうとう)、破滅。彼女にとっては堪へがたい痛恨事。)


・やがて更年期の心神變調が因となって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確實に進んでくる脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉へられ、その年二月 (次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので)ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしずかに瞑目したのである。

・彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終わるまで變わらなかつた。最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストの一顆を手にした彼女の喜びも亦この一筋につながるものであつたろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがすがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるように見えた。
 
 


   


余談1:

 智恵子は、自己の最高の能力をつねにものに傾注した。藝術に關することは素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧をゆるさず妥協を卑しんだ。いはば四六時中張りきつてゐた弦のやうなものでその極度の緊張に堪へられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。とは高村光太郎の述懐である。
 詩歌等はその背景を理解しているとなおさら心にひびくものであるなあ。。。。

背景画は、安達太良山の景色。

                               

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