遠藤周作著  『ルーアンの丘』、
     遠藤順子著  『夫の宿題』


              
2007-10-25


                    (作品は、遠藤周作著『ルーアンの丘』PHP研究所、
              遠藤順子著『夫の宿題』  PHP研究所による)
  


               
 

遠藤周作著「ルーアンの丘」:
本書は大きくは、「赤ゲットの仏蘭西旅行」と滞仏日記(1952年9月から1953年1月)の二部構成からなっている。
「赤ゲットの仏蘭西旅行」は昭和26年11月から翌年7月まで「カトリック・ダイジェスト」に連載。
本書は、1998年(平成10年)9月刊行

遠藤順子著「夫の宿題」:

1998年(平成10年)7月刊行


読後感:

遠藤周作著「ルーアンの丘」

 断然面白いのは、前半の戦後初めて留学生(27歳で)としてフランスに船で、客船の最下等のキャビンに押し込まれ、フランスマルセーユまでの船旅での出来事と、大学が始まる秋までを、北仏のノルマンディーのルーアンにあるロビンヌ家で過ごした3ヶ月間の報告である。

 思い出すと藤原正明著の「若き数学者のアメリカ」で、アメリカへの初めての旅行紀行(研究者として大学に留学)が相手がアメリカというのも面白かったが、こちらはフランス、しかも戦後間もないということで、それらの国の違いからして興味津々。しかも、遠藤周作ということからなおさらである。

 読んでみて、日本という国が戦争で行ったことが、アジアの人達に残した影響、フランスの人達にどんな風に理解されているのか、そしてこのことからも著者がこの後どういう考え方で作品を生むようになったかの根の所が少しは理解できるような作品であった。



遠藤順子「夫の宿題」

 このエッセイは遠藤周作の夫人、遠藤順子さんが夫とのことについて、その出会い、結婚そして何度にもおよぶ病気との闘い、人との出会い、キリスト教との関わり、日常の諸々のことなどが綴られている。そして遠藤周作が病を克服して「沈黙」という作品を書くことに病をも乗り越えられたこと、最後の作品となった「深い河」が本当に神様のおぼしめしで作品を書く時間を与えられたことを知った。

 いつぞやかのNHKラジオ深夜便で、長崎にある遠藤周作記念文学館の館長を務めておられる順子さんの、明るいハキハキとした声を聞き、今回目にした本であった。

 この本の中にも、遠藤周作がフランス行きを慶應義塾大学仏文科の教室で、「明後日出発します」と教壇に立って発表し、当時聴講生であった順子さんが、「何でこんな人がフランスへいけるのかしらん?」と口惜しく思ったというところには笑ってしまった。



  


◇印象に残る言葉:

 
遠藤周作著「ルーアンの丘」より

・日本を出発の時「近代文学」の佐々木基一氏の言葉(座右の銘に)
 「本なら日本でも読める。それよりフランス人の発想法を吸収してこい」 

・いよいよフランスの大学が始まり、優しくも厳しく教育されていたロビンヌ家を去る時に夫人が言った言葉:
 「あなたの性格がよく判ったと思いますよ。だから、最後に、私の言うことを聞いてちょうだい。学生の中には、意地悪もいるでしょう。そんな時は黙っていたら駄目。言い返しておやんなさい。学生には学生の作法や気分があるのだから、向こうに行ったら、それになじみなさい。私があなたに教えた通り、もうしなくていいんですよ。馬鹿なこともおやりなさい。うんとあばれなさい。しかし、時と場所に従って、私の教えたことをお守りなさい。」


・解説で作家加藤宗哉氏の言葉:

 三十年間遠藤先生の近くに過ごしながら、私はフランス留学時代の話をほとんど聞いたことがない。
 ・・・・
「いろいろあってさ・・・これでも苦労したのよ」
 という言葉は、それが留学時代にふれたほとんど唯一の科白だっただけに私の胸につよく残った。そこには小説家としての遠藤周作が感じた、たとえばキリスト教をめぐる西洋と日本の距離感といったテーマとは別の、もつと生身の感慨が込められていた気がする。
 ・・・・
 
 先生の没後、私はそのフランス留学時代に書かれ、しかしまだ単行本にはなっていない旅行記があるのを知らされた。・・・そこには、私の知ることのなかった世界があった。若い日の遠藤周作の、みずみずしい情感と人生への覚悟、信仰と懐疑、そして哀しみが告白されていた。それは私が知ることのなかった、小説家を目指したひとつの知性の、生身の感慨だった。




余談:

 著者がどんな状況のもとにあり、どういうことを考え、どんな人となりであったかを知ると、読む作品自体にも愛着が沸いてくる。

背景画は本書の表紙を利用。

                               

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