(作品は、新潮社出版による) 『沈黙』』は言わずと知れた遠藤周作の有名な作品。 作品に対しては、内外のキリスト教団体、信者などから批判されたり、キリスト教に対する理解の仕方、作品の文体の不統一性とか批判があるようである。 日頃宗教に余り縁のない自分が、読んでいく内に、引き込まれていく作品の持つ力とか、人の持つ弱さとか、感動させるものが読んだ後に残り、魅力ある作品であると思った。 世界中に翻訳され、そして読まれているというのも、作品が持つ魅力がなせるわざと考えられる。 曾野綾子の「神の汚れた手」に続く、キリスト教関連の作品を味わった。 |
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主な登場人物: 私=セバスチャン・ロドリゴ(司祭=パードレ) フェレイラ教父 井上筑後守 キチジロー |
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印象に残った箇所 ◇ 「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」それから彼は恨めしそうな眼を私にふりむけて言ったのです。 「パードレ、おらたちあ、なあんも悪かことばしとらんとに」 ◇フェレイラ教父の言葉 「この国は沼地だ。・・・どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。 葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」 |
余談: 背景画像には、何となく相応しい射干(しゃが)の花を選ぶ。 (鎌倉円覚寺にて) |