遠藤周作著 『沈黙』
                   
2004-07-20

 (作品は、新潮社出版による)

『沈黙』』は言わずと知れた遠藤周作の有名な作品。
作品に対しては、内外のキリスト教団体、信者などから批判されたり、キリスト教に対する理解の仕方、作品の文体の不統一性とか批判があるようである。

日頃宗教に余り縁のない自分が、読んでいく内に、引き込まれていく作品の持つ力とか、人の持つ弱さとか、感動させるものが読んだ後に残り、魅力ある作品であると思った。
世界中に翻訳され、そして読まれているというのも、作品が持つ魅力がなせるわざと考えられる。
曾野綾子の「神の汚れた手」に続く、キリスト教関連の作品を味わった。

 

主な登場人物:

私=セバスチャン・ロドリゴ(司祭=パードレ)
 ポルトガル人、ローマ教会のイエズス会の計画で、マカオより日本にガルペと二人派遣される司祭(パードレ)。 目的は先に日本に布教のために派遣され、その後神を棄てた恩師のフェレイラ教父の存在と運命を確かめるため。

フェレイラ教父
 
二十年、この国に布教し、敗北した老宣教師。転んだ後、沢野忠庵という名前を改め、日本人の妻をめとって天文、医術の書を翻案、病人を助け、人のために尽くしながら生き続けている。

井上筑後守
 島原の乱後、新しく宗門奉行に任命された基督教弾圧の事実上の指導者。(一見)ものわかりの良さそうな穏和な人物。 フェレーラ師を訊問し、「穴吊り」の刑を考え出して、棄教させた。

キチジロー
 
島原の内乱の前に海を漂流していた時、ポルトガル船に助けられ、私と仲間達をマカオから日本に案内する役をになう。 信徒であるが、弱い人間であるため、役人の取り調べには転んでしまったり、司祭たちを売ったりするが、最後まで司祭の後を追ってくる。

印象に残った箇所

◇ 「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」それから彼は恨めしそうな眼を私にふりむけて言ったのです。 「パードレ、おらたちあ、なあんも悪かことばしとらんとに」

 聞き棄てしまえば何でもない臆病者のこの愚痴が何故鋭い針のようにこの胸にこんなに痛くつきさすのか。 主は何のために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。 いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の怖ろしいことだったのです。 それは神の沈黙ということ。 迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻き(うめき)が満ち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。 キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない。


◇フェレイラ教父の言葉

「この国は沼地だ。・・・どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。 葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」
「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。 彼等の神々だった。 それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。」


「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。 日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。」
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。 日本人は人間を超えた存在を考える力をもっていない。」 「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。 人間とは同じ存在をもつものを神とよぶ。 だがそれは教会の神ではない」

「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。 たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。 私はながい間、それに気づきもせず知りもしなかった。」


 司祭は足をあげた。 足に鈍い重い痛みを感じた。 それは形だけのことではなかった。 自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。 この足の痛み。 その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かって言った。 踏むがいい。 お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。 私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。 鶏が遠くて鳴いた。


余談:
 背景画像には、何となく相応しい射干(しゃが)の花を選ぶ。
(鎌倉円覚寺にて)

                               

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