夏目漱石著  『道草』
                     

2004-06-20

 (作品は、ほるぷ出版による)
  

 『道草』は漱石の自伝的要素の強い小説とされている。
 夏目金之助があしかけ3年間の英国留学から日本に帰ってきたのは、明治三十六年一月。 官費留学生のとぼしい生活費の中から食費を切りつめて書物を買い、ロンドンの場末の下宿に籠もって、英文学との悪戦苦闘に神経衰弱になって、日本に帰ってきた。

 しかも、夏目金之助が日本を発つ時、家族を託した義父は、彼の留学中に失職した上に、相場に手を出して公金に穴をあけ、困窮していたという。 金之助は家族の困窮を救うため、一高と帝大文学科の講師をして生活費を稼がなければならなかった。

 この小説は、作者の過去の実生活という素材にもたれかかった小説ではない。 その素材を扱う強い思想が背後にはたらいているので、それは一口で言えば、「自分という存在はどこから来て、どこへ行くのか」という切実な問いかけであり、そういう自分が他人とのあるべき関係の中で生きるとはどういうことかを問う思想なのである。(解説桶谷秀昭による)

 

主な登場人物とバックグランド:

◇主人公健三とその細君
・健三 36才 学校の先生 神経衰弱。 外国から帰ってきて駒込の奥に世帯を持つ。
・お住 ヒステリー性(補足:急に身体を弓なりにして頭部をのけぞらせたり、足と頭で全身を支えるようにして痙攣を起こす。)
 結婚して7〜8年。 二人の子供(女子)があり、現在三人目を妊娠中。 健三は3つから7つまで島田夫婦の手で養育され、その後父に引き取られる。 健三22才の時、手切れ金として健三の父より島田に渡され、絶縁を言い渡している。 父は既に他界。 親類からは変人扱いされている。 「教育が違うんだから仕方がない」と健三の腹の中には常にこういう答弁があった。

◇親類
・腹違いの姉(お夏): 51才 勝ち気、喘息持ち。
 子を産んで間もなくその子を無くす。 月々健三は少々の小遣いをやっている。 島田のことを聞きに行った時、もう少し増やしてくれないかと頼まれる。

その夫比田: 元四ツ谷の区役所に勤める。 健三と一つ違い程度。
 一人で遊ぶために生まれてきた男。
・一人の兄:7才年上。 局勤めの小役人。派出好きで勉強嫌い。 若い頃は食うことと遊ぶことことばかりに費やす怠け者。
 三人の子の親になり、その中で一番可愛がっていた惣領の娘が年頃になって、悪性の肺結核にかかった。 その娘を救うため、あらゆる手段を講じたが、全くの徒労に終わり、彼の家の箪笥は丸で空になった。 彼は健三の外国で着古した洋服を貰って、それを大事に着て毎日局に出勤した。


◇島田と先妻、後妻
 ある日健三はいつもの通り本郷の方へ例刻に歩いていて、思いがけない人に出会った。 十五六年の月日が経っているが、相手はこちらをじっと見詰めていたが、健三は目を脇へそらさせた。 六日目の朝になって再びその男は、今度は何人も不安にしなければ已まない程な注意を双眼に集めて彼を凝視した。 それが島田であった。 そこから小説が始まる。

・先妻お常: 後に島田が突然姿を消し、他家に嫁に行く。
 島田夫婦は吝嗇(りんしょく=けち)であったが、健三は余所から貰い受けた一人の子として、異数の取り扱いを受けていた。
 夫婦は健三を可愛がっていた。 けれども其の愛情のうちには変な報酬が予期されていた。 その内、島田が突然お常と健三の前から姿を消し、お常と健三の二人っきりになった。 さらに、お常も健三の前から姿を消し、健三は父親に引き取られた。
健三は、お常の世話を受けた昔を忘れるわけにいかなかった。

・後妻お藤:
 島田はお藤と結婚。 お常は、お藤の娘お縫い(夫:波多野)から月々いくらかずつ金を送って貰っていた。

  

「道草」という題の意味について:

 年の暮れが迫ったある日、幼い時に養父母として育ててくれた島田が、これを最後の無心として代理人をよこした。 困るからどうにかして欲しいと素直にお願いするのなら、昔の情義上少しの工面はしてあげると返事をし、帰した後、再び書斎に入り、半紙の山を綿密に読み通す作業に戻ったが、ペンを放り出し、寒い往来に飛び出した。 人通りの少ない町を歩いて、彼は、自分のことばかり考えた。 そこで記されている次のような文章。

「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」

 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。 彼はそれに答えたくなかった。 なるべく返事を避けようとした。 するとその声がなお彼を追窮し始めた。 何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。 彼は最後に叫んだ。

「分らない」 その声は忽ち(たちまち)せせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」(九十七)

 生きるということは、誰もがこの作品で描かれているような道草を食っていることなのである。 という解説(桶谷秀昭)になるほどと納得。


 

余談:
 『道草』の背景画に何の花を持ってこようかと考えたら、やはり六月の花としてはアジサイが似合う。アジサイの中では、この頃ガクアジサイの良さをちょっぴり感じられるようになった。