2004-05-20 | |
(作品は、漱石全集第八巻 岩波書店による) 何故漱石の作品に引かれるのかと云うことについて、付録の「漱石との縁」増田みず子氏のエッセイに次のように評されていた。 なんだか自分が感じていることを的確に表しているようで引用させて貰う。 理知的な部分を強調したようなところより、いじいじくよくよするさまが面白い。 もともと理知的な考え込む体質の人であるからこそ、環境にふりまわされて、感情的に屈折してしまうところに面白さが出ているのかも知れない。 登場人物達がふいにいきいきとしてくるのは決まってそのような、思い通りに行かなくて感情がよじれてしまうような場面だ。 要領の悪い、つきあい下手の主人公たちが、とかくこの世はままならぬ、と呟(つぶや)かざるをえないところで、こちらもいっしょにためいきをつく。 そして何となく苦笑する。 どちらかといえば拒否感情を主調とする文章が多いのに、作品世界にさす光は明るく、やわらかい。 その暗さと明るさのバランスが、えもいわれぬ魅力になって引きつけられる |
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主な登場人物とその相関関係、人物像: ◇長野家 |
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印象に残る箇所: 兄の気分転換のため、H氏と旅行に出かけて後、H氏からよこされた、兄の行動に関する手紙の一部。 三十一 碁を打ったときの心理状態について: 兄さんは碁を打つのは固(もと)より、何をするのも厭だったさうです。 同時に、何かしなくては居られななかったのださうです。 此矛盾が既に苦痛なのでした。 兄さんは碁を打ち出せば、きっと碁なんぞ打っていられないという気分に襲われると予知していたのです。 けれども又打たずには居られなくなったのです。 それで巳(やむ)を得ず盤に向かったのです。 盤に向かうや否や自裂(じれっ)たくなったのです。 仕舞いには盤面に散点する黒と白が、自分の頭を悩ますために、わざと続いたり離れたり、切れ合ったりしてみせる、怪物のように思われたのだそうです。 兄さんはもう些(ちっ)とで、盤面を滅茶苦茶に掻き乱して、此の魔物を追っ払う所だったと言いました。 四十五 そうして、兄さんの言葉。「僕は明らかに絶対の境地を認めている。 しかし僕の世界観が明らかになればなる程、絶対は僕と離れて仕舞う。 要するに僕は地図を披(ひら)いて地理を調査する人だつたのだ。 それでいて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮(あせ)り抜いているのだ。 僕は迂闊なのだ。 僕は矛盾なのだ。 しかし迂闊と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻いている。 僕は馬鹿だ。 人間としての君は遙かに僕よりも偉大だ」 今まで見てきた兄さんとは別人の兄さんを理解させようとする、H氏からの手紙の中身は、漱石の苦しみの一部なのかも知れない。 |
余談1: 『行人』にも、『彼岸過迄』にも主人公と兄嫁が登場するが、二人の会話はいつも自然で、このように心地がいい。 幼児期、母の愛に飢えて厳格な父の許で育った漱石にとっては、年上で自分の身近の兄嫁こそ、生母の分身として唯一心を許せる人物として無意識に接しられ、甘えられる相手だったのだろう。 と参考文献(1)にある。作品には漱石の生い立ちを知ることで漱石像も違ってくることを指摘されている。 |
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余談2: 背景画像には、兄と友人H氏が旅に出て、箱根では落ちつがず、紅ケ谷の山荘(鎌倉とか)で落ち着きを取り戻している兄の様子を知らせる長い手紙が届くのに関係して、獅子舞の紅葉を配した。 |
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参考文献:
(1) 神経症夏目漱石 平井富雄著 (福武書店)