曽野綾子著  『哀歌』



 


                   2007-01-25
(作品は、曽野綾子著 『哀歌』(上)(下) 毎日新聞社による。)

          
  

初出 毎日新聞朝刊 2003年10月−2004年11月連載
刊行 2005年3月


物語のあらまし:

 主人公鳥飼春菜は、修道院本部からアフリカに赴任するように命じられ、赴任していて、修道院の日常生活に慣れつつあった。しかしその国は政情不安な国で、大統領が殺され、人口の9割を占めるフツ人民兵(中には子供もおり、略奪や脅しを楽しんでいるもの達が多い)が、昔は国を支配していたツチ人を探し出して虐殺を行う事態に遭遇する。
 春菜が修道院の生活を選んだのは、アフリカ宣教という仕事が、日本にいて就職や結婚をするより意義があると思ったからであったが、現実はそんなものではなかった。
 やがて、神父たちも殺され国連軍の支援を受け出国にこぎつけたが、日本に戻った春菜を悩ませる出来事が待っていた。

読後感

 この作品を読んでいると、人間が何も持たない極限の状態の生活とは、こんな状態になるのではと思うが、でもどこか遠い世界の出来事と感じてしまっている。今もこういう世界があることを肝に銘じて、毎日を生きていく必要があると反省させられる。

 政変の中春菜が体験した状態を、日本に帰ってきて仲間の修道院の人達や友人達に話しても理解されないであろうこと、今の日本の状態とあまりにもかけ離れた状態にあることに虚しさを感じることが同感出来る。
 アフリカのどこかではこんな所が今もあるのではとの思いをすると同時に、こんな事があっていいのか、あり得るのかとも。人間って怖い動物であり、何か信じるものがないと生きていけないようだ。
 修道女でありながら、修道院の中の人も善人だけではないし、出身も、育ちも違うし。また気分が悪くなるような場面の描写もあり、途中で止めようかと思ったりするが、アフリカを脱出して出国してからの春菜の気持ちの変化も知りたくなり、遂に最後まで読んでしまった。

 アフリカでの生きざまを通して、人の善意に対する感覚が薄れてしまっていたが、出国して現地でたまたま会った田中一誠なる人物が、そんな感じの中、いい人か否か不明であったが、その人の秘書ともいうべき布村正子の人となりに今までの人間に対する不信感というか、もやっとしていた感覚ががすうっと消えてしまうものを感じた。
 物語の後半になって、盛り上がってくる快感は、やはり前半の多くをさかれたアフリカでの生活描写がないと生きてこなかったんだなあと、作者の言いたかったものが見えてきた。

印象に残る場面:

◇スール・ジュリア(同じ修道女)の言葉

 鶏はけっこう高価なので、いつも買うわけではなかったが、買うとすれば首も足もついた丸ごと一羽である。
「私(スール・ジュリア)は小さい時、お父さんとお母さんが市が立つ日に店を出して、鶏も売っていた。」
「弟と私が羽を持って、お父さんが鶏の首を切るの。するとお湯を沸かしてまつているお母さんが羽を毟(むし)ってお客に渡すのよ」
「私(春菜)は鶏を殺したこともないし、よく見たこともないのよ」
スール・ジュリアはむっとした表情を示した。
「じゃ日本人は、どうやって鶏を食べるのよ」
「もう鶏肉になって、包装されたものをマーケットから買って来るの」
「だってその前には誰かが殺してるはずだわ。私たちはそのために働いてきたんだから。殺さないで食べられるわけはないんだからね」

・・・

 彼女は、鶏を殺さずに鶏肉を食べられると思う日本人の虚偽性を、全身全霊で非難したのだ。
 そこには継続した生の営みの明暗、その荘厳さ、その矛盾を、とことん生徒に教えもしなければ、問い詰める習慣もつけさせない、許しがたい怠慢と虚偽性に満ちた日本の教師たちがいる。命を差し出す鶏を労(ねぎら)い、鶏を殺すという作業を受け持つ人々への感謝を全く教えない親たちの無知と無礼がある。
 日本でも、あらゆる学校で、必ず生徒か学生に卒業前に一度は鶏を殺させるべきだ。鶏肉は食べながら、鶏を殺すところを見ただけで残酷だという人々は、この人生を何と思っているのだろう。


◇アフリカでの政変の中、好きでもない男にレイプされ、妊娠し、生まれてくる赤ん坊を憎みはしないかと悩む春菜に対して、戦火の中を通り抜けてこられた方と印象を持つ田中一誠とのやりとり

「子供を憎んでいてもいなくても、そんなことは大したことじゃない、って神さまは言うんだろうな。なぜかと言えば、心から可愛いと思おうと思わなかろうと、とにかく子供が気がつかないようにすればいいわけだ。あなたは生んだ母として、人間の使命として、年長者の任務として、心では可愛くなくても抱きしめて、犬を可愛がって飼う人のように子供の面倒を見ればいい。それくらいの嘘がつけないかな、あなたは」


・・・

「子供に嘘をついてもいいんですね」
「嘘はついてもいいんだよ。ただ安っぽいすぐ終わりの見えるような嘘はいけない。つくなら、生涯をかけた壮大な嘘をついてよ。嘘とほんとうの文目(あやめ)もつかない壮大な嘘をね。それにこれは僕の暴論になるだろうとは思うけど、好きだから愛するなんてことは誰にでもできる。好きでなくても、愛していたという嘘をつき通したらいいんだよ。少なくとも僕はその方が好きだ」

  

余談:

 小林完吾著の「この愛、こだまして」(廣済堂)を読んでいたら、その中に曽野綾子との対談があり、「神の汚れた手」と「天上の青」の話題が載っていた。それがきっかけで再び曽野綾子のこの作品を図書館で見かけ読んでみた。こんな風にして巡り会えた良質の作品も嬉しい。

 背景画は、近くの教会のフォト。作品に出てくる秋谷の教会を捜したが、見あたらなかったので。教会はお寺や神社に比べ、そうあちこちに有るものでもないなあと実感した。