司馬遼太郎著『最後の将軍』徳川慶喜
                     
2004-01-27



 司馬遼太郎原作の「竜馬がゆく」が平成16年正月二日、テレビ東京で放映された。
大政奉還を将軍慶喜が決意したことを、後藤象二郎からの飛報で聞いた竜馬は、 「将軍今日の御心、さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな、予は誓ってこの公のために一命を捨てんと声を上げた」とある。
 果たして、徳川慶喜とはどんな人であったのか?

 「竜馬がゆく」に続いて、この点を紐解いてみよう。










徳川慶喜の生い立ち:

 御三家の一つ、水戸の徳川家に生まれる。 父は烈公斉昭(水戸斉昭)、幕末における幕府政治家の中では出色の評判。 老中阿部正弘より、慶喜を一橋家の養子にせよとの台慮(将軍の意思)を伝えられ、これを請けた。(慶喜11才の時)当時の12代将軍家慶(いえよし)はあまり健康でなく、その後を継ぐべき世子の家定は生まれつき病弱。 となると時代の将軍家に養子が必要になってくる。将軍の養子は、水戸家を除く御三家の他に、御三卿の家から選ばれる。ところで、御三家、御三卿の中で将軍家の養子を出せる能力は無い状態にあった。従って、慶喜が一橋家に入れば、将来将軍になる可能性が大であった。

御三家








御三卿  

紀州、尾張、水戸。
 水戸家は最も石高が少なく、官位も他の二家が大納言であるのに、中納言。将軍家に嗣子(しし)がない場合、紀州・尾張から入ることがあっても、水戸からはいることはなかった。 優遇されている点と言えば、当主は参勤交代の義務が無く江戸屋敷に常住する特権があたえられていること。将軍と共に江戸にいるということで、「天下の副将軍」といわれた。(参考 水戸家二代目藩主:黄門光圀)将軍の養子は、水戸家を除く紀州家、尾張家という御三家のほかに、「御三卿」の家から選ばれる。

一橋、清水、田安の三家。
 八代将軍吉宗がはじめたもので、将軍の血筋をプールしておくのが目的であった。生きて健康に暮らしていることだけが将軍家への義務であり、他に役目も実務もない。 一橋家は御三家のように独立した大名ではない。藩も持たない。家来も慶喜の身の回りに必要な人数だけであった。法制上は、将軍家の家族。家来も、身分は将軍直参であり、それが出向のかたちをとる。

徳川慶喜の人となり、性格:

 水戸斉昭は慶喜に、ほとんど滑稽なほどに大きな期待をかけていたし、斉昭の期待が風聞をうみ、その風聞が慶喜を思わぬ運命の場所へ運んだというべきであろう。
「英明にしてすこぶる胆略有り」という噂だけが世間を駆け回り、世間を踊らせ、下級志士などは慶喜を救国の英雄と見、それを憧憬し、ほとんど狂舞せんばかりであった。 これほど奇妙な英雄の作られかたは史上なかったであろう。 当の慶喜は、当惑しきっていた。
 家康以来の英雄であるという評が、慶喜の敵側から出るくらいであった。

歴史のこと:

・嘉永6年6月3日 ペリー浦賀に来航、開国を迫る。
・嘉永6年6月22日 12代将軍家慶病死。 歴代将軍の中で最も劇的な時期に死んだといえる。 13代将軍(精神薄弱者の)家定に代替り。

◆一橋慶喜を担ぐ動き
 「いかなる犠牲をはらっても、一橋卿を世子に押し立てねばならぬ。 それ以外に救国の道がなく、それが実現せねば日本は潰えるしかない」と説きまわり、持っている限りの人力と財力を使ってその運動に没頭している男がある。 越前福井32万石藩主、松平慶永(安政の大獄で隠居を命ぜられ、春嶽と称す。)
 さらにもっと巨大な工作者がいる。 薩摩の島津斉彬であった。 大奥の水戸嫌いを軟化させようとし、自分の養女を現将軍家定の正室として入れた。 この縁談は、幕府の首相格(老中筆頭)である安部正弘により軌道にのせられた。 安部正弘、家定より一足先に急死。年わずか39才。慶喜21才の時。 14代将軍になりうる可能性は正弘の死で絶えたといっていい。

◆事態の変化
 幕閣に彦根藩主井伊直弼という人物が入った。 しかも、安政5年4月大老になった。 直弼はこの前後、紀州派と深く結んでいた。 「かならず紀州慶福(よしとみ)様を推す」ということを大奥や紀州派の要人達と密契していた。 14代将軍となる家茂(いえもち)である。
・安政5年6月 日米条約を勅許も経ずに調印。
・安政5年9月 安政の大獄始まる〜安政6年12月まで
 慶喜も登城禁止さらに隠居慎。 四賢侯は国許にて永蟄居。

・万延元年3月 桜田門の変で井伊直弼暗殺される。
・井伊の死後満2年たった文久2年4月、慶喜は謹慎を解かれた。 朝廷より幕府に勅使。 薩摩島津久光江戸入りし、これを後押し。 「幕府を改革し、攘夷を決行せよ。そのため、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老職に要求。」 これに幕府が屈す。
四賢公



徳川家将軍
薩摩の島津斎彬(なりあきら)、土佐山之内容堂(豊信)、伊予宇和島伊達宗城(むねなり)、越前福井松平春嶽(慶永(よしなが))の四人を指す。この内、島津斎彬の死後、島津久光をさす。

12代将軍:徳川家慶(いえよし)
13代将軍:徳川家定(いえさだ)
14代将軍:徳川家茂(いえもち)
15代将軍:徳川慶喜(よしのぶ)

一橋慶喜の思想(本心):
 
 井伊直弼が列強の武威に屈して結んだ、安政仮条約を踏襲するか、それとも京都朝廷の至上命令ともいうべき、攘夷を断行するか、二者択一を迫られたときの、慶喜の思想は、直弼の行為は不正であるが、それは国内の問題であり、相手国にとって条約破棄は不信義である。 よしや条約を破棄し、戦となるもしょせんは名目なき戦い。 京都朝廷をこそ命がけで説破し、その蒙を啓き、清国の二の舞をせぬようにせねばならぬ。
 しかし、京都から「攘夷御催促」の勅使が下向すると、大混乱になることは必定。松平春嶽は、幕議としての方針は攘夷の勅命をつつしんで承けたまわると応答。
 京での慶喜の行動は変幻自在であった。

慶喜の心変わり:
 老中より「薩人の裏面工作が成功し、帝の側近をにわかにに開国色に染めている。昨日は長州の攘夷に従い、今日は薩州の開国に従う。幕府の面目はどこにあります」と聞いた慶喜は、重大な関頭に立っていることに気づく。 薩と組み天下を横領せんとするという噂は、待ち構えていたようにして幕府内部から出、慶喜は謀反人として葬り去られるに違いない。 それよりむしろ薩の開国論に反対し、積極的に攘夷主義を標榜すれば、幕府内部も慶喜を信頼し、慶喜は幕人の心をにぎることができるかもしれない。 政治家として当然のことながら、慶喜は自分の基盤である幕府を握る方角を選んだ。この男はその信念を、便宜として捨てた。 これで慶喜は朝廷からも孤立、三賢公の支持者からも孤立した。

◆第15代将軍徳川慶喜の誕生:

・蛤御門の変で一橋、薩摩の評判上がる。 第二次長州征討開始。
・14代将軍家茂、七月二十日没す。
・幕閣、朝廷の賛同を得て、慶喜を将軍にする件が、松平春嶽より説得が行われたが、慶喜は受けず、徳川宗家のみを継ぎ、15代目の当主となった。 そして朝廷の勅命を賜ろうとしての作業中、突如、長州大討込を止めると言い出した。
・松平春嶽のみる所、家康と吉宗をのぞけば、慶喜ほどの政治的頭脳をもった男もいまい、しかも、その教養は、家康と吉宗をはるかにしのぐであろう。 しかしながら、もっとも愚昧な将軍でさえなかった愚行を、慶喜は連続的に演じている。 つまるところ、あのひとには百の才智があって、ただ一つの胆力もない。 胆力がなければ、知謀も才気もしょせんは猿芝居になるにすぎない。 慶喜自身は、この軽薄さについて内々にも悔いず、ひとに対しても羞じらわなかった。
・この後、さらにさまざまの曲折をへたあと、慶喜は将軍に宣下された。−われは将軍職をこのまず。 ということを世間にむかってくどいほど言い、その演技をした。
◆徳川慶喜、大政奉還に応じる。:

慶喜の将軍就任後、わずか二十数日目に孝明帝が病死された。(幕府は終わったと慶喜はとっさに思った。) この帝がおわすがぎりはという佐幕活動者の心丈夫さがあり、佐幕以外に尊王はない、という公武合体派の理論根拠もそこにあった。 その帝が、薨じた。 あと、幼帝が立つ。 その保護者は外祖父の中山忠能で、もし宮廷で謀略家があらわれ、この老公卿を籠絡すれば「幕府こそ朝敵である。それを討て」という勅錠なども簡単につくりあげることができる。
慶応三年十月十二日、慶喜は京都に駐屯する幕府役人をことごとく二条城大広間にあつめた。土佐藩より提案のあった大政奉還の案を説いた。 翌十三日、在京四十藩の代表を二条城に集め同様の宣言を説明した。 翌々十五日、朝廷からこの案を許可され、ことは終わった。

大久保一蔵の推察する、慶喜の弱点は、朝命を怖れるところである。 というよりも、朝敵となることを、世に慶喜ほど怖れる者はまれであろう。 慶喜は歴史主義者だけにその目はつねに巨視的偏向があり、歴史の将来を意識しすぎていた。 賊名をうけ逆賊になることをなによりもおそれた。 その神祖の家康にはそれが皆無であった。 皆無であることが家康の行動を自由なものにした。 南北朝のころの足利尊氏を逆賊に仕立てることによって、独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身である慶喜は、自分が足利尊氏になることをなによりもおそれ、その点でつねに過剰な意識をもつていた。 それを、慶喜と同じ体質の大久保一蔵はありありと見ぬいている。
大政奉還後の徳川慶喜のこと:

・王政復古の大号令が慶応三年十二月九日発せられる。
・朝敵となった慶喜は後の始末を勝海舟に頼み、自らは朝廷への絶対恭順をとおした。
・明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。 その前後、慶喜は水戸から徳川の新封地である静岡に移っている。

静岡に移った慶喜は、その後会うのは一橋以来の家臣である渋沢栄一と、明治政府との関連において保証人のようなかたちになつている伯爵勝海舟ぐらいのもので、両人以外の過去のたれにも会わなかった。
慶喜が62才の明治31年2月9日、
親戚の有栖川宮威仁(たけひと)親王の誘いを受け入れ参内した。
・それから四年後、慶喜は宗家の徳川家達とは別に一家を立てるべき内勅があり、華族に列せられ、公爵を授けられた。
大正二年77才の11月はじめ、風邪をこじらせなくなる。

余談1:
 徳川慶喜の人物について、次第に首尾一貫しないところが不快になってくるようで、後半部分になると同情の余地が無くなってきた。 心が強いのか、言われるとおりに右往左往する気の弱い将軍とも思えず、見栄っ張りとも思える。
 しかし、大政奉還後の晩年の慶喜の姿を見ると、何か理解できるような、かわいそうな人であった気がしてくる。 人の一生は死ぬときになってはじめて、良かったのか、つまらない人生であったのかが判るようで、この後も後悔しない人生を送りたいものである。
余談2:
 年末から正月に掛けてスペシャル番組などで、幕末から維新にかけての映像が多数在った。
「高杉晋作」、「勝海舟」、「竜馬がゆく」等。 しかし、その中に出てくる人物像は、脚本家の思惑や、配役のイメージにより、かなりな部分バイアスがかかってしまう。 やはり、作品に書かれたものを自分の中で人物像を膨らませるながら読んでいくのが楽しいとつくづく思われた。

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