司馬遼太郎著『竜馬がゆく』
                   
2003-12-12



 横須賀市大津観光協会主催のおりょうさん祭りが、「よこすか開国祭」の最後の関連イベントとして、十一月上旬行われた。
 開国の志士・坂本龍馬と大津町がどういう関わりがあるかというと、龍馬の妻おりょうが、晩年横須賀で過ごし、お墓が信楽寺(しんぎょうじ)にあるからである。











信楽寺境内

 さて、11月4日大津公民館で、昨年に続き、今年で2回目となる「龍馬とおりょう展」が開かれるとともに、『龍馬とおりょうと開国』と題する講演会があった。講師はよこすか龍馬会会長磯野淑紀さんが、坂本龍馬の生きざまの話を、つづいて、若きおりょうに扮した龍馬会の和服の女性が、おりょうさんのことについて熱弁をふるわれた。
 はじめて見る磯野講師は、小学校の先生で、なかなかの話し上手。おもしろおかしく龍馬の生い立ちを話された。

 たまたま京都からこの日のために見えたという、おりょうさんの遺族関係者が、当時はもとより、現在でも、世の中に知られていない話をすると、すぐにどこからか電話が入り、圧力を感じるという話には、驚かされる。
 この催しを契機に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだ。先の「夜明け前」といい、今回の「竜馬がゆく」といい、大変な大作で、ペリー来航に発した幕末から明治維新にかけての激しい時代の流れと、その時の人々の生きざまが熱く伝わってくる。
小林竜雄著司馬遼太郎考より、「竜馬がゆく」誕生秘話:

・資料代に費やした額が破格。3,000冊、金額にして当時1,000万円という資料収集の徹底ぶり。
・原稿料は、吉川英治並みの1ヶ月100万円。(当時公務員の初任給は15,700円。)
・当初、中里介山の「大菩薩峠」の司馬版を考えていたそうだが、「竜馬を書いて欲しい」と最初に頼んだ、高知出身の後輩記者。
 資料を当たっていく内に、何故か竜馬のことが出て来て、本格的に調べてみようと思い立つ。 奥さんから「竜馬には母性愛を感じる」という言葉にも動かされる。 また、明治100年が近いこともあった。

「竜馬がゆく」は、竜馬を中心とした幕末の世を司馬が旅して、「日本人とは何か」を考えていくものなのである。








桂浜の坂本龍馬像
おりょうのこと:(「竜馬がゆく」と大津観光協会資料より)

 天保12年(1841)京都西陣で生まれる。嘉永6年(1853)13才の時父、母が続いて亡くなり、医師楢崎(将作)家の養女となる。安政元年(1854)竜馬と出会う。文久2年(1862)楢崎将作が没し、竜馬の計らいで、京都伏見船宿寺田屋、お登勢のもとに養女として入る。

 慶応2年1月、竜馬の仲介で薩長密約同盟が成立した夜、竜馬と、竜馬の護衛役としての長州藩士三吉慎蔵が寺田屋に泊まったところを、伏見奉行所配下の襲撃を受けた。その時、おりょうに危急を知らされ、怪我をしながらも、薩摩屋敷に逃れた。これを機におりょうに対する竜馬の想いは、恋という甘味な想いでなく、馴れ合いの仲になっていった(26才の時)。傷療養のため、九州霧島の温泉に新婚旅行を兼ねて連れだって行く。

 二人の蜜月旅行が終わり、竜馬は再び回天の事業に奔走の毎日となり、おりょうは下関に預けられ、その後慶応3年11月の、京都伏見屋での竜馬暗殺を知らされる。

 おりょうのその後は、坂本の家に戻っても馴染めず、東京に出、深酒に溺れる荒んだ毎日を過ごす。料亭の仲居としてつとめていた頃、この料亭に遊びに来る横須賀に住む西村松兵衛と意気投合し、所帯をもつことになり、名もツルと変えている(35才の時)。その後、松兵衛は事業に失敗し世帯も苦しくなっていたが、それでも彼女は酒を欠かすことがなく、飲んでは昔の竜馬の想い出にひたっていた。自尊心の強い彼女は、松兵衛とは名ばかりの夫婦であったようだ。

坂本龍子の墓:
坂本龍子の墓
 享年66才。葬儀はそれまで何くれとなく面倒を見てくれていた地元鴨居出身の鈴木清治郎翁や、翁と昵懇の大津信楽寺住職等有志によってひそやかに済ませ、住職の好意で信楽寺に埋葬された。

「竜馬がゆく」にみる、竜馬が恋した女性達のこと:

 竜馬が恋し、恋された女性が三人いる。他にも惚れられたり、かつ好きだったりした女性も数知れない。
(1)土佐藩家老福岡家のお田鶴さま
 縁戚の京都公卿三条実美(さねとみ)(急進尊壌派)のもとに臈女(ろうじょ)として仕える。
恋というあの甘味な想いは、お田鶴さまにこそ持った。しかし、出自が大藩の家老の息女ということで郷士とは身分の違いが大きい。禁門の変で長州へ「七卿落ち」した三条実美について行ったお田鶴さまを守るために、竜馬は友人に保護を頼んでいる。

(2)京橋桶町の千葉道場、千葉貞吉娘の千葉さな子
 女性ながら北辰一刀流免許皆伝で、剣術がご飯より好きという娘。何も言い出さぬ竜馬に対して、決死の思いで、さな子より「お嫁にしていただけませぬか」といい出す。
それに対し、竜馬は自分の紋服の左袖をべりべりと引きちぎり、「わしは何ももっておらぬ。これを貰うてくれ」とさな子にさしだす。「志士ハ溝壑(こうがく)二在ルヲ忘レズ、でありますかな。いつ、この世から消えるかもしれぬ。その時の記念でござる」
 「つまり、どういうわけで頂戴するのでございましょう」「竜馬の感激のシルシと思ってください」その言葉を、さな子は、竜馬が恋をうけ入れてくれた、と受けとった。
さな子は独身で世を終わった。
 竜馬の好きな女性のタイプは「男まさりで、才気があって」。 上の二人は竜馬が救ってやらねばならぬということがない。

(3)おりょう
 生い立ちは先に記したとおり。月琴、生花、茶の湯が出来るだけで、お針仕事もお炊事もできない娘。できないだけでなく大きらいらしい。
 恋などという鮮烈な語感はちょっとあてはまりにくい。いうなれば、やや響き高き、馴れ合いの仲という言葉がぴったりという(寺田屋事件までは)。
 ひょんなことからできあがる。

とはいえ、私的にはおりょうさんにはあまり好感を持てないのはどういうものかなあ。


余談:
 竜馬が恋した女性の一人、千葉さな子の墓が甲府にあるという。(土佐のおんちゃんのHPより)
甲府は武田神社のそばのお寺(清運寺)の小田切家の墓所の一角に千葉さな子という碑銘の墓がある。背面には「坂本竜馬室」と記されている。
 
 明治になり、学習院の舎監をしたりしていたがやがては下町の長屋で細々と昔憶の針灸で生計を立てていた。
 甲府の商人の妻が江戸に良い灸があると聞きさな子を訪ねるが二人は生涯の付合いとなる。 この妻は、竜馬の死後も竜馬を思慕し続け、袷衣の坂本家家紋を切取って生涯身から離すことがなかったさな子を不憫に思い、身寄りの無いさな子の死後も、自家の墓所に分骨埋葬し、自分の死後も家族同様に供養するよう子孫に言い遺したという。
余談2:
 インターネット上にも坂本龍馬に関するホームページが数多くある。
 塩野七生がどこかで書いていたけど、歴史もののよい点は、魅力的な人物に会えること。そして人物に惚れることによってまた歴史が好きになる。



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