大石静著 エッセイ 『静心』





              
2009-02-25




 (作品は、大石静著 『静心』 角川書店による。)

                  


 
2001年(平成6年)3月刊行。

 大石 静:
 
 1951年9月東京生まれ。日本女子大学文学部卒。数多くの脚本を手がける。
大学を卒業後、女優を志し青年座の研究所に入る。24歳で甲状腺のがんを患い、3年後に再発。その体験が作品に独特の生命力を与える。81年、劇団「二兎社」を結成、91年に退団するまで脚本、演出家兼女優として活躍する。86年に書いた初のテレビドラマ「水曜日の恋人たち」(TBS)がヒット。たちまち売れっ子シナリオラーターとなる。


 

読後感:

 小説を読んでいると、ドラマなどの脚本家に関心が向く。そんな中で脚本家のエッセイにおもしろい言葉(引用を含め)が印象に残ったのでとどめてみた。また、大石静という脚本家の意見はなかなかはっきりとしていて、同感のものもあるが、テレビ界にいる人だけに、視聴者側の感覚とは相容れないものもあり、そんな風な見方をしているのかと面白く感ずることろもあり、このエッセイはおもしろかった。


印象に残る表現:

 大石静、なかなか主張をする脚本家である。

◇何サマなのか、教師・二十七歳

 週刊文春の特集「何サマなのか、テレビ局」のこと
 読者からのメッセージについて反論、

 このような幼稚な短絡的思考しかできない人間が教師であること自体、私には衝撃だ!少年犯罪の多発に心を痛めていると言うけれど、一番問題なのは、一番危険なのは、この教師のような短絡的思考の人間だ。簡単に目の前のものに罪をきせて、お気楽になれる体質の人間だ。人は何か事が起こると、わかりやすい原因を求めたがる。目の前のものを犯人に仕立て上げることで、取り敢えず安心する傾向にある。今、そのターゲットになりやすいのがテレビだ。新聞でさえ、週刊文春でさえ、テレビが悪いと声高に叫びたがる。

 一人一台の時代になったテレビの影響力が多大であることは、ドラマの創り手である私も認める(だから逆に、必要以上の表現の自主規制も一方で生まれているのが現状だ)。

 だが、翻って見て、テレビから流れてくるものを、ただただ真実と信じてしまう神経というのも、病んでいないのか?

 軽佻浮薄なテレビ番組はある。しかし、それを見た時、それなりの判断の出来る子供もいるはずだ。そういう人間を育てるべく努力するのが教師だろう。

 この人の言う「子供たちに夢を与えるようなテレビ」とは、一体なんだろう。・・・・

 夢だけ与えていればいいんだろうか?漠然と、夢を与える希望を与えると言うけれど、どんな人の人生も、どのみち過酷である。夢や希望だけでは生きられない。

 清濁合わせ飲む力も、人間には必要なのだ。

  

◇女・文学・革命    

 テレビの脚本の仕事は、熾烈な競争の上に成り立っている。なぜなら、ドラマの枠は数に限りがあるからだ。たとえばこれが小説なら、自分が書きたいと思って書き、出版社がこのレベルなら出版してもいいと判断すれば本になる。・・・

 だが、民放のゴールデンタイムの連続ドラマ枠は、現在たったの十七枠(「水戸黄門」とか「はぐれ刑事」も入れてよ)。それに単発の二時間ドラマが何本かあって、昼間の単発ドラマがある程度。・・・それにしても、細かな深夜ドラマなどを入れても、たかだか四十にも満たない枠を、大勢の脚本家が争っている訳だ。

  

余談1:

 どのチャンネルのドラマを見ても、出ている配役には同じような顔ぶれ、イメージなんか作れない。年に何本かぐらいに絞ってほしいと思うのは無理かな?

余談2:
 顔についての私見という表題では、額の横シワは財を築くが、眉間のシワは運を逃すと言われている。写真を撮られる時、シャッターが切られる直前に鼻からスーッと息を抜くと、自然と顔の筋肉がゆるみ、さりげなくイイ感じになる。
 やってみよっと。


  背景画は、本書の表紙を利用。