印象に残る表現:
大石静、なかなか主張をする脚本家である。
◇何サマなのか、教師・二十七歳
週刊文春の特集「何サマなのか、テレビ局」のこと
読者からのメッセージについて反論、
このような幼稚な短絡的思考しかできない人間が教師であること自体、私には衝撃だ!少年犯罪の多発に心を痛めていると言うけれど、一番問題なのは、一番危険なのは、この教師のような短絡的思考の人間だ。簡単に目の前のものに罪をきせて、お気楽になれる体質の人間だ。人は何か事が起こると、わかりやすい原因を求めたがる。目の前のものを犯人に仕立て上げることで、取り敢えず安心する傾向にある。今、そのターゲットになりやすいのがテレビだ。新聞でさえ、週刊文春でさえ、テレビが悪いと声高に叫びたがる。
一人一台の時代になったテレビの影響力が多大であることは、ドラマの創り手である私も認める(だから逆に、必要以上の表現の自主規制も一方で生まれているのが現状だ)。
だが、翻って見て、テレビから流れてくるものを、ただただ真実と信じてしまう神経というのも、病んでいないのか?
軽佻浮薄なテレビ番組はある。しかし、それを見た時、それなりの判断の出来る子供もいるはずだ。そういう人間を育てるべく努力するのが教師だろう。
この人の言う「子供たちに夢を与えるようなテレビ」とは、一体なんだろう。・・・・
夢だけ与えていればいいんだろうか?漠然と、夢を与える希望を与えると言うけれど、どんな人の人生も、どのみち過酷である。夢や希望だけでは生きられない。
清濁合わせ飲む力も、人間には必要なのだ。
◇女・文学・革命
テレビの脚本の仕事は、熾烈な競争の上に成り立っている。なぜなら、ドラマの枠は数に限りがあるからだ。たとえばこれが小説なら、自分が書きたいと思って書き、出版社がこのレベルなら出版してもいいと判断すれば本になる。・・・
だが、民放のゴールデンタイムの連続ドラマ枠は、現在たったの十七枠(「水戸黄門」とか「はぐれ刑事」も入れてよ)。それに単発の二時間ドラマが何本かあって、昼間の単発ドラマがある程度。・・・それにしても、細かな深夜ドラマなどを入れても、たかだか四十にも満たない枠を、大勢の脚本家が争っている訳だ。
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