s





     沼田まほかる著

                   『 猫鳴り 』







                
2012-03-25
                                            



(作品は、沼田まほかる著『 猫鳴り 』 双葉文庫による。)

           
 

 
 本書 2008年(平成20年)6月刊行。書き下ろし作品。

 沼田まほかる:
 1948年大阪府生まれ。主婦、僧侶、会社経営を経て2004年(平成16年)「九月が永遠に続けば」でホラーサスペンス大賞を受賞してデビュー。作品に「彼女がその名を知らない鳥たち」「猫鳴り」。
物語の概要: 図書館の紹介より   

  宿した命を喪った夫婦。思春期の闇にとらわれた少年。愛猫の最期を見守る老人。ままならぬ人生の途に「奇跡」は訪れた…。1匹の猫の圧倒的存在感が物語を貫く。濃密な文体で人間の心の襞に分け入る傑作長編。 

主な登場人物:
 

第一部

妻 信枝
夫 籐治
浩市
アリヤマアヤメ

信枝40歳、宿していた赤ん坊を世に出すことなく亡くす。
捨て猫を何度も捨てるも戻ってきたり、捨てきれずに探しに行く。赤ん坊の姿と交差して育てようと。
籐治は雇われ大工、52歳。
浩市は同じ職場の大工。同じ職場のマナミと結婚したばかり、籐治の家に将棋家に打ちによく来ている。
アリヤマアヤメは捨て猫(モン)の張本人。信枝の家に猫を見に来る。

第二部

父親
子 行雄

行雄は父(32歳)と子(13歳)の父子家庭。父親は母親に逃げられ、頭は小説家になりたい夢を持つ。
行雄は不登校状態になり、ポケットにサバイバルナイフを忍ばせ、チビを刺そうと。少年の心の闇とモンの行為が・・。

第三部

籐治
若い獣医

妻の信枝も7年前に逝き、籐治も猫のモンも年を取ってい行く。モンの老いていく姿を通し籐治の、死への恐れも次第に溶けてゆく。


読後感:   

 第一部を読んでこういう猫にまつわる題材が小説になるんだなあと感心。 読んでいると本当に登場人物の感じたり、思ったりしていることがつぶさに表現されていて身近かに起きていることのように感じる。 ついついのめり込んでしまった。 この感情はどうしたものか、著者の表現力、感性がいかに素晴らしいものかと感じ入ってしまった。

 第二部になるとそれが受け入れがたいものになってちょっと違和感を覚える。
 一応猫と有山アヤメが仲介することで連続した物語になっていることが判った。
 子猫のペンギンの死骸を有山アヤメが連れているモンちゃんという赤トラ猫に「食べられてるかも知れない」「あの子はモンちゃんに食われてモンちゃんになったと、思ったらええやん、な」と言われ泣きたくなってしまった行雄。 少年の気持ちがゆらぐ。

 第三部、信枝が逝き、主人公が夫の籐治となり、老いてゆくモンという猫の最後を見とる詳細描写を通して猫という動物とはいえ、人間の生き方にもあてはまる情、思いやり、やさしさ、いとおしさといったものがない交ぜて伝わってくる優れものである。

印象に残る表現:

 第一部     夫の籐治が妻の信枝に対して女の子を捜しに行って子猫を持ち帰ってきて言う言葉。

「飼ってやったらどうだ」
 言葉が出なかった。 夫を見、 猫を見、 それからまた夫を見つめた。
「こいつだって、きっと生きていたいんだ」
「だって、・・・ この子猫、 どうしても・・・」 「それでいいじゃないか。 どっちにしろ、 俺たち夫婦は死ぬまで何遍でも亡くしたこの子とのことを思い出すんだ。 子猫が赤ん坊に見えたって、 ちっともかまわんじゃないか。 しっかり生きて色々なものを見るたびに、 何遍も何遍も思い出してやろう」

余談:

 丁度時を同じにして佐野洋子著のエッセイ「神も仏もありませぬ」筑摩書房を読んだ。
 その中に“フツーに死ぬ”と言う表題のエッセイが印象的であった。
 内容は飼い猫のフネが末期ガンになったそしてフネと筆者の向かい合う描写がつづく。 沼田まほかるの「猫鳴り」という作品と頭の中がだぶる。
 僅か10ページ程の記述であるがこんなふうな描写の仕方もあるんだなあと、長・短は別にして想いは同じなんだろうと。人様がガンになったときの有り様とフネという猫の静にじっと死を待つさまの違いを筆者は人間の駄目さ加減を指摘。
「私はフネのように死にたいと思った」と。太古の昔、人はフツーに死んだのかもと。
 ほんとだなあ。

 

背景画は武田花著「イカ干しは日向の匂い」(角川春樹事務所刊)の内表紙を利用。
日常のひっそりとたたずむ光景に向けられたフォトとともに記されたエッセイが思い出されて。

                    

                          

戻る