「阿弥陀堂だより」にみる作品の背景と映画に関して述べている場面:
◇「阿弥陀堂だより」を書き始めた理由
「阿弥陀堂だより」を書いた1994年(平成6年)から1955年にかけての体調は最悪だった。パニック障害からうつ病に移行し、一日一日を死なずにやり過ごすだけで精一杯だった。
阿弥陀堂は生まれ育った群馬県吾妻郡嬬恋村大字三原の下屋と称される十軒あまりの集落の裏山にある。そのすぐ下の墓地には私が三歳のときに死んだ母や、以後十三際の春までこの集落で私を育ててくれた祖母の墓がある。
弱りきった精神は退行を好む。あのころのわたしは底上げなしの、あるがままの存在を許されたふるさとの自然や人のなかに還りたかった。しかし、実際に還ったところで懐かしい人達はみな死者であり、ともに眺める人を亡くした風景は色あせて見えるだけだろう。
ならば、言葉でふるさとを作り出すしかない。そんな想いで「阿弥陀堂だより」を書き始めた。・・・・・
もし生きのびられるのなら、もう一度この世界から歩き出したかった。切実に、その世界を創り上げたかった。
母亡き後に育ての親になってくれた祖母をモデルに、この阿弥陀堂の堂守として住む老婆を創作した。
情よりも理を重んじる信州人はなんとなくわたしの小説の登場人物にはなりにくい。人物像を上州に借り、風景を信州に借りる。こうしてわたしの山村を舞台にした小説は出来上がっている。
◇映画「阿弥陀堂だより」のこと
小説と映画は表現の手段が違う。わたしの小説を読んで、監督や脚本家が解釈した世界と、それを書いたわたしのイメージが異なるのは当然であり、その差異を埋める努力は結局徒労に終わるであろうことは明白だ。
・旧黒澤組による映画化の話をもらった時、脚本は見ない、記者会見には出ない、撮影には立ち会わない、試写会には行かない、ことでのぞんでいる。
北信濃に腰をすえて一年間をかけたていねいな映画が完成した。自分は一般の観客の一人として映画館の片隅に坐るのが妥当だと考えたので、失礼にならないように文にてお断りした。
映画「阿弥陀堂だより」にも、夫に先立たれた妻が訪れたとき、阿弥陀堂を守る老婆が無言で慰め、哀しさを共有するところが遠写しにされている場面があった。こういうのが小説がどうしてもかなわない映像表現の底力を見せつけられるシーンで、また涙の量が増した。
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