森 敦 著 

               『われ逝くもののごとく』

                 
                                                2008-08-25



(作品は、森敦著 『われ逝くもののごとく』  講談社による。)


               

初出 群像1984年3月号−1987年2月号  第40回野間文芸賞受賞作品。
本書 1987年(昭和49年)5月刊行。

森敦の略歴:(新井満エッセイ「森敦−月に還った人」より)

 1912年(明治45年)長崎市生まれ、将来政治家を志すも、17歳の時父親死去、17歳の時文芸講演会で菊池寛、横光利一らを知る。18歳の時、高校を依願退学、横光利一に師事。22歳で太宰治、檀一雄、中原中也らと同人誌“青い花”を創刊。
 29歳の時横光利一夫妻の晩酌で結婚。33歳終戦をむかえ、山形県内を転々、39歳の時8月下旬から翌初夏まで注蓮寺に滞在、この時の体験が後に小説「月山」となって結実。
 その後ダム建設の渉外担当他さまざまなことを体験、61歳の時「月山」を発表。芥川賞を受賞。72歳の時から“群像”に「われ逝くもののごとく」を連載開始。75歳の時野間文学賞。77歳のとき急逝。

読後感:

 

「月山」「鳥海山」を書いた後、11年後に執筆された作品が「われ逝くもののごとく」である。

 死の山のことを書いた「月山」と、生の山のことを書いた「われ逝くもののごとく」は対偶の関係という。(新井満のエッセイ「森敦}より)なるほど作品の中にたくさんの死者が出て来る。しかも語られているのが現実の世界か、夢、幻の世界なのか、ふと判らなくなってしまって、何とも不思議である。(作品の最後に ああ、世は夢か幻か  と記されている。)

 しかも700頁近い長編と方言言葉で、筋道がよく飲み込めないでとまどってしまう。よくこういう作品の場合、途中で投げ出してしまうのだが、新井満のエッセイのお陰で森敦という作家の人物像が何となく判って親しみを持ったこと、それと時々にハッキリと筋が判り、人間の優しさ、家族の思いが伝わってくる個所が多々あり、最後まで読破することが出来た。この作品も「月山」同様さらに年を経て再度読み直してみたら新たな理解・発見があるとおもえる。

 最後の方になって(?)わたしが出て来る。わたしはどうもそれまでに出て来た人物の一人のような気がするのだが、最初から読み返すのはまたの機会にとっておきたい。ということで読後感は未完ということとしたい。

新井満のエッセイ「森敦−月に還った人」より抜粋:


(新井)「月山」と「鳥海山」の関係を前から、「月山」は死を描き、「鳥海山」が生を描いたというふうに思っていたんですが、もう一遍読み直してみたら「鳥海山」は「月山」の延長のような気がしました。ところが以前に僕が感じていた生の山の象徴である「鳥海山」の世界は、こんどの「われ逝くもののごとく」に濃厚にあるんだなあ。死の山のことを書いた「月山」と、生の山のことを書いた「われ逝くもののごとく」は対偶の関係ではなかろうかと、思ったのです。

(森)まさにそのとおりです。

(新井)この二冊の本は、実に組み合わせが絶妙ですね。凹と凸、空間と時間、生と死。「月山」では一人の青年の生を書くことによって死の本然(ほんぜん)の姿を書こうとなさった。「われ逝くもののごとく」では無数の死を書くことによって様々な生の姿を徹底的にお書きになったのではないか。だとしたら、この二册の作者である森さんは、今非常に気持ちが良いのではなかろうか。尋常なよろこびではないのではないか。同時に読者もこの二册を合わせて読むことができるというのは、たいへん幸福なことだと思う。

   


余談1:
 著者を知ると言うことはどんな状況で、どんな思いで作品を書いているのかも味わえて、作品を理解する上でも大変参考になるものだ。  
背景画は、吹き浦から見た鳥海山風景。

                               

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