宮城谷昌光著 『奇貨居くべし』

                   
2006-05-25

(作品は、中央公論、中央公論新社 宮城谷昌光奇貨居くべし(一)〜(五)卷による。)


       
    

くしくも昨年の5月version が 「興亡三国志」 で今回も中国史になった。
「奇貨居くべし」は1996から2001にかけて中央公論、中央新公論に連載された作品、作品には古代中国に素材を求めた作品が多い。

時代背景: 

 三国志が春秋・戦国の動乱を経て、秦の始皇帝による統一がなり、その後秦は(有名な項羽と劉邦の戦を経て)漢の時代にはいる。そして漢は前漢、後漢合わせて400年ほど、比較的安定した社会が続く。 漢の時代の後、三国(魏・呉・蜀)鼎立の時代を経て、やがて魏の将軍司馬炎(武帝)が晋(265-316)を建て、中国を統一する。
 この作品「奇貨居くべし」は賈人(かじん=商人)であった呂不彙が、春秋・戦国の激動の時代を生き、ついに秦の始皇帝の宰相にまで上りつめた呂不彙の物語である。

不彙の生い立ち:
 

 韓の商人の子として生まれ、嫡子でないため、この世の底部をうろついて一生をおえそうな定めであったが、15歳の時、父より、店では目をかけられている鮮乙と伴って「山を見てこい」と旅に出される。
 その旅で色々な人に出会い、勉強をし、経験をして次第に素質を現す。
・山師の彭存(ほうそん)は鮮乙に、あの子からは黄金の氣が立ったと告げられる。
・魏の首都、大梁(たいりょう)で人相見の唐挙に、「あの呂不彙という童子は、35年以内に位人臣を極めることになる」と予言される。

不彙に影響を与えた主な人物:

鮮乙(せんいつ)  呂氏の店の店員。不彙と共に旅に出、以後呂不彙を支え続ける。
藺相如
(りんしょうじょ)
 趙の人、宮中において宦官を取り締まる長官(宦者令)繆賢(ビュウケン)の舎人(=執事)。
 諸国の君主さえ畏縮する秦の昭襄王に威圧されず、和氏の璧をだまし取られることなく、しかも趙と秦との交誼(こうぎ)をそこなわず、むしろ礼遇されて、弱国の使者が強国の王と対等の席に就いたといううごかしがたい事実をたずさえての帰国。上大夫に昇進。
 呂不彙が和氏の璧を返す条件と引き替えに、藺相如の客となり見聞を広めることに。
黄歇
(こうけつ)
 楚の貴族、頃襄王(けいじょう)の側近の一人。和氏の璧を趙に運ぶ途中、秦の魏ゼンの手の者に襲われ、たまたま呂不彙によって拾われ、藺相如をたよってきたところで、返される。後の楚の宰相春申君。
孫子(荀子)   戦国末期に現れた思想界の巨人。のちに孫卿(そんけい)とも呼ばれる。趙に生まれ、若い頃斉に留学した。
呂不彙の師であり、心の支えであった。
孟嘗君
(もうしょうくん)
 薛(せつ)公。もともと寡欲の人で、孟嘗君は斉と魏と秦で宰相をつとめたが、いずれの国にいても領土拡大のための侵略戦争をおこしたことはいちどもない。その思想は、諸国は調和して在りつづけるべきであり、盟主はその調和を紊(みだ)す者のみを討伐するというのが軍事の正当である、と考えていた。
 唐挙の使いで、慈光苑の伯紲に届け物の役目をおった呂不葦は、そこで老人(孟嘗君)に会い、自宅に招待され、上客として扱われる。

魏(ぎぜん)と
蛇方(たほう)
 魏ゼンは秦の宰相、穣侯。蛇方はその腹心。和氏の璧事件では呂不彙に死守され、魏ゼンの失脚のきっかけを作ったため、敵のひとりともくされていた。しかし、慈光苑で魏と斉の両軍に攻められ、人々を助ける為、蛇方に届けられた呂不彙の書簡に心を動かされ、助ける側になる。魏ゼン、蛇方の力、見識、生き方に相当助けられ、影響を受ける。

  

印象に残った所:

1. 楚が秦に対抗するため、趙と結ぶ策をたて、楚の宝(国王のシンボル)である和氏の璧を趙に持ち込む。
それに対し、秦王の使者が趙の邯鄲にあらわれ、恵文王に謁見し、秦の昭襄王の親書を差し出す。十五城を以て、璧に易(か)えん。(すなわち秦の十五城をさしあげるので、和氏の璧をよこしなさいという。和氏の璧が楚から趙へ移った秘事を、昭襄王は秦にいながらその秘事を知っていることに対しての驚き。)
その返事の使者として藺相如(りんしょうじょ)が任命され、無事にその役目が果たせるかの大一番での藺相如の謁見する際の会話(春風編):

「趙の会議においては、秦は貪婪(びんらん)ゆえ、空言をもって壁を求めている、したがって城は手に入らぬであろうから、璧を秦に与えてはならぬと決しようとしていた。が、臣(わたし)としては、無位無官の布衣の者でも、人との交わりにおいて、騙すことはしない、まして大国ではなおさらであると考え、ひとつの璧のことで、強秦との款(よしみ)をそこなうのはよくない、とおもったのです」
「ところがです。臣がここに至りますと、大王は臣を多数の目にさらし、礼節の倨(おごり)ははなはだしい。璧を手になさると、それを侍女にまで渡し、臣を戯弄(ぎろう)なさった。臣としては、大王には趙王に城邑をつぐなう意がないとみえましたゆえ、璧をとりかえしました。大王がもしも臣に急(せま)ってこられるのであれば、臣の頭を璧もろともに柱に打ちつけ砕いてごらんにいれるでありましょう」

そういい放つや、藺相如は柱を睨み、璧を柱に打ちつけようとした。
「待て―――」


2. 空想も、三年ほど服中に居(お)いておけば、奇貨に化する。(飛翔編)

 奇貨はめずらしい品物ということであり、手にはいりにくい財宝ともいえる。
 三年後には、賈(こ=商売)をおこなう。 三年たったら、陽テキへゆく。それまでたがいに研鑽を積もう。と鮮乙と約する。

 さらに、時勢が移り変わったことを感じ、この後どう進むかを思案する呂不葦は、もう一つの奇貨居くべしを発見し、賈で得た資財を鮮乙にいつさい譲る。そして秦の宰相への道を歩むことになる。

3. 執政の席から退いて、鮮乙に遇いにゆき、語る言葉。(天命編)

「わたしの旅はあてどのない放浪になりかけていたのに、孫先生(荀子)にお遇いしたことで、道を得た。孫先生の偉さは、英才ばかりを教育せず、わたしのような蒙昧で魯鈍な者にも、努力をしつづけることによって、英才にまさることを教えてくださったことだ。 たとえば、道は近くにあっても、行かなければ到らないし、小さな事でも、おこなわなければ成らない、というような教えには、先生の仁と勇気がこめられている。 人に優劣があるとすれば、先生は、為すかあるいは為さざるのみ、とおっしゃった。 人の差とは、やるかやらないかの差にすぎぬ」



感じたこと:

 最初作品の紹介が、秦の始皇帝の父ともいわれる呂不彙が、宰相にまでなるということに興味を持った。そして一商人の次男に生まれた頃の物語に、どうしてという疑問が加わった。
 しかし読み進む内に、次第に明らかになってきた。 当時の秦という国が、他の趙や、楚や魏といつた国と違い、法制度が浸透し、貴門出身者でなくても上に上ってゆける土壌をもっていたこと。 各国には王を支える優れた人物がおり、その人達に巡り会え、呂不彙の徳が認められたこと、天才でなく、駄馬でも努力のひとであったこと、人を見抜く力を持っていたこと、儒家だけでなく、道家の思想、それを学ぶ心を持っていたこと等である。 意外なことに、秦の始皇帝といわれる人物(秦王政)を、呂不彙は好ましくなく思い、やがて60才で執政の席から退いて、天命(民意)に従う。そして鮮乙に遇いに出かける心境はさびしそうである。
 三国志もおもしろかったが、春秋・戦国時代も色々なエピソードがあり、魅力のある作品がありそうである。 長い人生の最後が芳しくなければ、思い出は影のあるものになるだろう。

   


余談1:

 中国の歴史書には少なからず昔の故人の有意義な言葉が出てくる。それに比べて日本の歴史書には少ないように感じる。 ただ、日本文学の歌の世界には、色々引用される歌とか言い回しが出てくる。 こんなところにも違いがあるのだろうか? 


 

                               

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