司馬遼太郎著『三浦半島記』



 『街道をゆく』シリーズ全43冊の42番目に『三浦半島記』がある。 このシリーズは沖縄から北海道にいたるまで各地の街道をたずね、そして波濤を越えてモンゴル、韓国、中国をはじめ洋の東西へ自在に展開する「司馬史観」という。

 
 『三浦半島記』の中では鎌倉幕府のこと、三浦一族のことから、ペリー来航、横須賀海軍のことと幅広く氏の観点から纏められていて大変おもしろく書かれている。

 小林竜雄著、司馬遼太郎考(中央公論社)を見て、司馬遼太郎が小説を書く時の態度、考え方を知り、今は司馬遼太郎の談話集やエッセイのようなものにはまっている。

 さて、三浦半島記のことに戻るが、鎌倉散策でなんといっても感心するのが、地名に何とも美しい名前が付けられていることである。
 雪の下、小町通り、二階堂などなど。


 中でも化粧坂(けわいざか)という名前にはなんとも心動かされる。『三浦半島記』にも化粧坂という章があり、早速読み進んだ。

 後深草院二条という女性の書いた、作者であり主人公でもある『とはずがたり』という鎌倉時代の日記文学作品である。


 「彼女は、鎌倉後期にうまれ、前半生を京の宮廷ですごした。 高位の公卿の娘である。
 恋が多かった。

 賢く、かつ性的魅力にも富み、それもひょっとするとある種の男の嗜虐趣味をそそるようなところがあったのかもしれない。

 恋には、したたかでもあった。 ある時期、複数の相手を愛し、当時も罪の意識になやみ、その後、仏門に入ってから、そういう自分の罪障を身すえ、そのことによって菩提を得ようとした。 ...やがて旅に出た。

 正応二年(1289)、鎌倉に入るために化粧坂をのぼり、かつくだった。」


 彼女が見た鎌倉の印象は「化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山にて京を見るには引き違へて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あな物わびしと、やうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず」(巻四)とある。

 「鎌倉は三方が山にかこまれていて、外界から入る者は、坂を上下せねばならない。入口は、七つあるとされた。」
 彼女は、西方からくる人の多くがそうするように、極楽寺のそばの“切通(きりとおし)”を通った。極楽寺坂と呼ばれてきて、いまもそうよばれる。」


 とあり、どうも『とはずがたり』の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか。 おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいないと。

 こういう事柄を知りながら、化粧坂を登り、極楽寺坂を散策すると、なんとも豊かな気持ちになれるのは、読書の楽しみのひとつではなかろうか。

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