三浦綾子著 『千利休とその妻たち』



                   
2006-09-25

(作品は、三浦綾子全集第九巻 主婦の友社 『千利休とその妻たち』 による。)

              
 

主な登場人物

千宗易(利休)

宗易19才の時茶の湯に心のより所を真剣に求めはじめ、武野紹?の門を叩く。そして三好長慶の娘お稲の縁談を紹?に依頼し、弟子の宗易を世話した。時に宗易21才、お稲17才の早春であった。

松永久秀に対抗するため、織田信長の茶頭(ざとう)になり、信長亡き後は、秀吉の茶頭となる。しかし秀吉の茶人としての品格に反抗心を抱きつつも・・・

妻 お稲 お稲の母は、阿波の領主三好元長の目にとまりお稲を生む。腹違いの兄三好長慶、弟三好実休など強い武将のもとに嫁ぐことを夢見ていたが、堺の町の納屋衆の一人千宗易に嫁ぐ。その子与之介には「どんなに茶の湯がうまくなっても、城の主にはなれないのです」と常々言う。
 子供達

宗易とお稲の間には、長男与之介と4人の女の子おゆう、お袖、おぎん、おこうの子供をなす。当時は豪商は正妻の他に囲い女を持つことが男の甲斐性と見なされていて、宗易も他にも女がおり、子供をもうけていた。子供達では与之介とおぎんが物語で重要な役を果たしている。

(与之介、茶人となってからの号を紹安(ジョウアン)という。)

武野紹鴎

(ジョウオウ)

宗易の茶の湯の師。

武野家は三好長慶の御用商であり、武門の名門武田氏の家、信長より武器調達を依頼されるも、断ったため殺される。

宗易自身が紹?に見習うべき第一の生き方である。(武力では人の誇りまでは奪えぬ。)

宮王三郎

(ミヤオウ)
猿楽の名手、宗易にとって能の師。茶の湯では宗易の弟子。阿波の三好実休に乞われて阿波に渡るも、若くして亡くなる。
  おりき

宮王三郎の妻。その美貌、清浄さ、りりしさいずれも秀逸の女性。三郎が亡くなった後、母子は三好実休が手厚く保護され、三好実休はおりきを後添えに希望したが断る。また、松永久秀のしぶとい誘いにも応ぜず、かたくなに独り身を守った。阿波に向かうとき、夫から話しに聞いていた宗易に出逢い、好ましく思っている宗易がいたからである。宗易の後妻となり、宗易の相談役を果たす。
しかし、宗易との間に二人の子供をなすが、いずれも幼くして亡くなる。お稲の呪いも・・・。
長男の与之介と三女のおぎんはおりきに心を開くが、残りの子はお稲を・・・

今井宗久 武野紹鴎の女婿、かつ弟子。紹鴎亡き後、宗久はその莫大な財産と家業を譲り受ける。宗易より2才年上。時を見るに敏なきけ者。剛腹なところあり。
津田宗及 堺でも一、二を争う豪商天王寺屋の主。やや神経質。


印象に残る場面:

◇ 宗易が武野紹鴎(じょうおう)の門を叩いたときの話

「16才の時に、既に宗易が茶会をひらいたとの評判を聞いておる。その評判はおそらく貴方には害にこそなれ、なんの益にもならなかったであろうな。ここでは、まず庭の掃除からやってもらおう。それでもよろしいかな」と宗易自身の最も誇りとしているところを紹鴎は衝いた。そのあと「露地の掃除を」とちり一つ、木の葉一枚落ちていない場所に案内される。宗易は内心狼狽した。(掃除したばかりのあとを掃除せよとは、一体いかなることか)紹鴎が常々言っていると伝え聞いた言葉が浮かんだ。

「連歌は、枯れかじけて寒かれと言うが、茶の湯も、結局このようでなければならぬ。侘び数寄でなければならぬ」また、茶道の先達村田珠光の言葉も思い出した。「月も、雲間のなきはいやにて候」

 宗易は、竹箒を置いて、木に寄った。秋とはいえ、まだ、落葉にはやや早い季節である。宗易は力をこめて銀杏の木をゆすった。その四、五枚が午後の日に輝きながら、ひらひらと舞い落ちた。

読み所:

 宗易は最後に秀吉に切腹させられるが、それまでの心の葛藤が幾つかの事件によって揺れ動き、次第に宗易の成長と共に変化していく。

・千宗易(秀吉の時代になって、位階がなくては帝の近く伺候することが許されないため、天正13年9月利休居士の号を朝廷よりたまわつた)が信長から「そちは、一介の商人などではない。そうじゃ。そちから受ける感じは、名刀を見たときに受ける感じに似ている。」
 が宗易に茶頭(さどう)を薦めながら、すぐに「よい!返事は不要じゃ。今のわしには、そちは目ざわりじゃ」と前言を取り止めた様。

・宗易の愛弟子の山上宗二、いつも火のように生きている男、誇り高く、茶の湯に純、その素直さゆえに危惧するところが現実になり、秀吉により打ち首にされる。

・秀吉の色好みのせいで愛する娘おぎんが召し出されるが、憤死してしまう。
 それでも利休屋敷に見事に咲いた朝顔(おぎんが種を蒔いた)を秀吉が見に行きたいと訪れたとき、庭に一輪の朝顔もなく、茶室の床の間に大輪の朝顔がひとつ見事に咲いていた。一輪の花の命の重さを利休は訴えたかった。

・秀吉の茶心の至らなさに我慢がならないが、茶人としての利休の心の葛藤とおりきのささえに次第に大人に成長していく。最後は石田三成派の陰謀に秀吉がのって、利休を切腹させられることになったが、茶人の誇りとして命乞いを潔しとせず、切腹した利休。(天正19年2月、70才の生涯。ときにおりき59才の時。)

 


 
    

 ◇大徳寺山門 : 利休失脚の原因となった利休像の掲げられた京都大徳寺山門(左フォト)
 ◇利休庵 : 利休好みと伝えられる南宗寺にある利休庵(右フォト)


余談:

秀吉の茶頭として、千利休、今井宗久、津田宗及の人物のことを、今まではどういう関係かなど、よく知らなかったが、今回初めて知ることが出来た。

背景画は最晩年の頃の千利休の画像。利休と親しかった長谷川等伯の作品(本書にある写真より)。

                    

                          

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