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三浦綾子著 『泥流地帯』、『続泥流地帯』


                   
2006-08-25

(作品は、三浦綾子全集第八巻、九巻 『泥流地帯』、『続泥流地帯』 主婦の友社による。)

                   
 泥流地帯は1976年1月より9月まで北海道新聞の日曜版に連載。後編の続泥流地帯は、その二年後の1978年2月から11月まで同様に北海道新聞日曜版に連載された作品である。
十勝山麓の上富良野の農村を舞台にした、1926年の十勝岳大噴火を題材にしている。

主な登場人物
石村耕作
(弟)
主人公、拓一と3つ違い。頭が良く、中学校の受験で一番で合格するも、進学をあきらめ、高等科卒業後は代用教員として小学校の先生になる。
石村拓一
(兄)
貧しい小作農家のため、小学校の高等科を卒業後は、祖父を助ける。

石村富(姉)

 良子(妹)

富は拓一より2つ上。良子は耕作より4つ下。
富は好いた武井と一緒になるが、武井とは生(な)さぬ仲の(後妻)の母親シンの冷たさや、後妻の子供達の非協力など、苦労を味わう。良子は母が帰ってくることを楽しみにしていたが・・・。

父、母

父義平は、4年前(32才の時)冬山造林で木の下になって急死。
母佐枝は、義平が死んだ時31才。3年後、4人の子供を置いて札幌に出る。

祖父 石村市三郎、福島より北海道に開拓農民として移り住む。部落一の物知りとして知られる。祖母のキワと共に拓一、耕作、富、良子達を両親に代わり面倒をみている。山間の日進の沢(部落)に住む。
叔父 石村修平、父の弟。思ったことをずけずけ言う。耕作が中学の受験に合格したが進学をあきらめたとき、「俺も、お前に学校に行かれたら、恥ずかしくて、部落の人に顔合わされねえかった」というほど。口は悪いが、根はやさしい男。
曽山福子 曽山巻造の息子国男とその妹福子。国男は拓一と仲良し、福子は耕作と同い年。巻造がのんだくれで、深城の深雪楼(みゆきろう)に身売りされる。そんな福子を拓一、耕作ともに好きになる。
深城節子
(ふかぎ)
市街(上富良野)に住む深城鎌治の娘。深城鎌治は飲食店他を営みながら、金貸しもやり、高い金利と容赦のない取り立てで近在に知れ渡っている。節子は耕作より1つ年上。曽山巻造の裏山に、やまぶどうを取りに行ったとき、深城鎌治が耕作達に言った言葉に、耕作が腹を立て、石を投げつけた。その石が運悪く節子の額に傷を付けてしまう。そのとき耕作が、嫁のもらい手がなかったら、おれがもらってやると啖呵を切ったことが後々、事件に発展していく。


物語の展開

 舞台は北海道上富良野に近い山間の日進部落周辺。30年前福島から開拓農民として北海道に移り住んだが、土地も持たない小作農の生活に甘んじている、祖父と祖母。父を亡くし、母は訳あって札幌にいる、祖父と祖母に育てられる2人兄弟と2人の姉妹の4人の子供達を中心に、剛毅な人間や成長していく若者やひたすら受け身な女性と勝ち気な女性や醜悪な人間やその他さまざまな人間たちの織りなすまさに人間的なドラマが展開される。子供から次第に大人に成長していく様々な生活の中で、小学生時代、進路、生活、恋、世の中の矛盾などがテーマにぐいぐいと進んでいく。そのような状況の中で、最後の2章にきて今までわずかに語られていた十勝岳の大噴火(1926年に発生した実話をベース)による泥流が村を襲う時を迎え、事態は一挙に暗転に向かう。


印象に残る場面:

◇耕作が、「色々石村家に不幸(父さんは山で死ぬ。母さんは病気になる。ばっちゃんは中風に当たる。)がおこるのは祟りか」との問いに、市三郎の言葉 

「祟られてなんかいねえ。第一祟りなんかねえ。聖書に書いてある限りではな。神罰があるだの、仏罰があるだのって、人間の弱みにつけこむような教えは、本当の教えじゃあんめえ」「だけど、どうして辛いことや苦しいことが、あるんかなあ」拓一は福子のことを思いながら言う。「辛いこと、苦しいことを通して、神さまが何かを教えてくれているのかも知れんな。つまり、試練だな」

◇小学校高等科での研究授業の後、視学が耕作にかけた言葉

「君の家は何をしてるのかね」「農業です」「なるほど惜しいなあ」「・・・・」
「頑張って勉強し給えよ。人間の一番の勉強は、困難を乗り越えることだ」思わず耕作は、視学を見上げた。白髪の視学は、どこか祖父の市三郎に似ていた。やさしい顔だが、ちかりと光る目をしていた。

◇耕作が節子の顔に傷を負わせた事件で、深城鎌治に祖父の市三郎の言った言葉

「あんた、女の子の顔に傷ばつけた、女の子の顔に傷ばつけたと、何べんも言いなさる。そりゃ無理もねえ。だが、このくれえの傷は何日もせんうちになおる。しかしな、大事な母親の悪口を言われてな、わしらの孫らの心に受けた傷は、生涯なおらんかも知れんでな、顔の傷と、心の傷と、どっちが大事か、あんた知らんのかの」

「きまってらあ。顔の傷じゃ。その証拠に、人の体に傷をつけりゃ、駐在にしょっぴかれるが、悪口ぐらいでしょっぴかれた話は、聞かんわ。万一、この子の顔に傷が残ったら、一体どうしてくれるんだ。」大仰な言い分だった。それを聞いた耕作が叫んだ。
「おれがもらってやる!」

読後感:

 直接的には耕作の側から描かれていくので、主人公は耕作ということになる。

 物語の中で、祖父の市三郎の言葉が、年を取つた大人の見方で、他の大人達や、耕作達を納得させてしまうのはすっきりとしていて心地よい。

 兄、拓一の謹厳さ、やさしさ、思いやりに、弟の耕作はやっぱり負けると兜を脱ぎ、自分も好きな福子を、兄の方が好いていることになんとか相手に伝えたいと思ったり、思いがけなく1つ年上の深城(ふかぎ)節子が耕作を好いていると言われ、意識し出す所など、揺れる青春時代の描写も実に切なくて心に響く。

 貧しい中で日々幸せに暮らしている北海道の農民の生活が、自然描写といい、飼い馬との生活といい、それらの中でひしひしと伝わってくる。

 また、小学校の代用教師となり、子供達に詩を書かせる場面でのやりとりなど、学校教育の色々な面での情景も、今日の問題点をあからさまにしていて、意味深い。

 本題の十勝岳噴火に伴う山津波に襲われる時の情景描写は、丁度7月の後半、活発な梅雨前線の活動で、長野や、鹿児島などで被害が出ている情景をも想像させるような迫真の表現で、目の当たりに見るようである。文学作品というものの底力を感じさせる。


余談1:
クリスチャンである作者の作品だけに、根底に聖書の教えが息づいているが、困難なことに当たって、心の支えがある人は強いなあと感じさせられる。
背景画は十勝岳連峰のフォト。 

                    

                          

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