昭和25年夏、京都鹿苑寺(ろくおんじ)の有名な金閣が、寺僧の放火によって焼失した。 この事件を扱った小説に、水上勉の『金閣寺炎上』がある。 また、この事件を素材にした三島由紀夫の『金閣寺』がある。今回は両作品を読んでみた。
水上勉の作品は、犯人である同郷の友人林養賢の鎮魂のため、実証性の濃い作品を彼に捧げたい気持ちということで、書かれたものである。 従って、林養賢がどういう理由でこのような行動に至ったかを、筆者(私)なりに追跡調査したものである。
ところが三島由紀夫の作品は、金閣を焼いた本人(私)が、どのようにして、そういうことをしていくことになったかを吐露していく描き方で、一つの事件に対して非常に対比される作品となっている。
三島作品は考え方も、なかなか一般人に理解出来ないような感情を露わにしていて、なるほど三島由紀夫が、ああいう人生の結末を迎えることになったのかと予感させられた。
状況的には、両作品とも共通的な所もあるが、異なる点もあり、実際の所は水上作品の方が実際に即しているのだろうと思われるが、そこの所は個々の作品と見ることにする。
水上作品に見る物語の概要:
昭和二十五年七月二日午前三時ちょっと前頃、金閣から火が出た。 犯行は、寺の徒弟林養賢二十一才。
まもなく庭つづきにせり上がっている山、通称左大文字山で自殺をはかったが死にきれなかった林が放火をみとめ金閣寺に連行された。
そこには林養賢の家庭環境、金閣寺に弟子入りできた事情、どもりであることの劣等感、禅宗の戒めと住職や執事や副司の人達に対する怒り、母に対する忌み嫌い、裁判での養賢に対する精神鑑定結果などを、色々な人に問いただし、裁判の記録などを使い、筆者の疑問点をただしていくさまが克明に記述されていく。
林養賢の生誕地は、京都府舞鶴市字成生(なるお)である。 筆者自身、京都相国寺塔頭(たっちゅう)の小僧で、高野分教場とよばれる学校にいた頃、昭和十九年八月のはじめ、杉山峠(舞鶴半島)で養賢に出会っている。
林養賢の刑期は七年 (刑期が短いのは、人が住んでいない金閣を焼失させたということで、最重刑でもこれだけ
)、しかし刑期中、極度の神経障害と肺結核を患い、刑期終了後も、入院生活を強いられ、昭和三十一年三月七日林養賢は死亡した。
また、父親の道源は、病床に伏しがちで、犯行以前、昭和十七年十二月に結核で死亡していた。 一方、母親の林志満子は、当時仮寓していた京都府大江山麓の尾藤部落から、養賢の犯行直後面会に行ったが、養賢から会うのを拒絶され、失望のあげく帰村する途中、列車から保津峡へ投身自殺した。
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