水上勉著 『金閣炎上』
   /三島由紀夫著 『金閣寺』

                     
2005-03-25

(作品は、中央公論社 水上勉全集第六巻 金閣炎上及び、新潮文庫ベース 大活字本シリーズ 三島由紀夫 金閣寺による。)


           
 

 昭和25年夏、京都鹿苑寺(ろくおんじ)の有名な金閣が、寺僧の放火によって焼失した。 この事件を扱った小説に、水上勉の『金閣寺炎上』がある。 また、この事件を素材にした三島由紀夫の『金閣寺』がある。今回は両作品を読んでみた。
水上勉の作品は、犯人である同郷の友人林養賢の鎮魂のため、実証性の濃い作品を彼に捧げたい気持ちということで、書かれたものである。 従って、林養賢がどういう理由でこのような行動に至ったかを、筆者(私)なりに追跡調査したものである。
 ところが三島由紀夫の作品は、金閣を焼いた本人(私)が、どのようにして、そういうことをしていくことになったかを吐露していく描き方で、一つの事件に対して非常に対比される作品となっている。
 三島作品は考え方も、なかなか一般人に理解出来ないような感情を露わにしていて、なるほど三島由紀夫が、ああいう人生の結末を迎えることになったのかと予感させられた。
 状況的には、両作品とも共通的な所もあるが、異なる点もあり、実際の所は水上作品の方が実際に即しているのだろうと思われるが、そこの所は個々の作品と見ることにする。

水上作品に見る物語の概要:

 昭和二十五年七月二日午前三時ちょっと前頃、金閣から火が出た。 犯行は、寺の徒弟林養賢二十一才。 まもなく庭つづきにせり上がっている山、通称左大文字山で自殺をはかったが死にきれなかった林が放火をみとめ金閣寺に連行された。

 そこには林養賢の家庭環境、金閣寺に弟子入りできた事情、どもりであることの劣等感、禅宗の戒めと住職や執事や副司の人達に対する怒り、母に対する忌み嫌い、裁判での養賢に対する精神鑑定結果などを、色々な人に問いただし、裁判の記録などを使い、筆者の疑問点をただしていくさまが克明に記述されていく。

 林養賢の生誕地は、京都府舞鶴市字成生(なるお)である。 筆者自身、京都相国寺塔頭(たっちゅう)の小僧で、高野分教場とよばれる学校にいた頃、昭和十九年八月のはじめ、杉山峠(舞鶴半島)で養賢に出会っている。
 林養賢の刑期は七年 (刑期が短いのは、人が住んでいない金閣を焼失させたということで、最重刑でもこれだけ )、しかし刑期中、極度の神経障害と肺結核を患い、刑期終了後も、入院生活を強いられ、昭和三十一年三月七日林養賢は死亡した。

 また、父親の道源は、病床に伏しがちで、犯行以前、昭和十七年十二月に結核で死亡していた。 一方、母親の林志満子は、当時仮寓していた京都府大江山麓の尾藤部落から、養賢の犯行直後面会に行ったが、養賢から会うのを拒絶され、失望のあげく帰村する途中、列車から保津峡へ投身自殺した。

感じる所:

・観光収入の多い金閣寺の、寺の内の内情が描かれていて、僧界の人間模様もはなはだ一般社会と同様な愛憎が存在することが読み取れる。

 また、臨済宗の一般のお寺と違い、観光で十分潤っているお寺であるが故に、禅宗の修行の場である弟子達に、清貧一途の修行道を徒弟に課してきた住職と、現実に行われている住職や、内実を仕切っている人達の行動を見てのギャツプから、そのような中で、林養賢のような人間が育てられるのも、判らなくもない。

・僧門から除外され、亡くなった後、どこかに眠る所がないと救われないと、筆者がお墓を探し求めてみると、やっと父親の実家に志満子と養賢の墓を見つけ出して作品が終わる。このような運命をたどった人の死に、なにかほっとする感じを持ったのは、自分もそういう年齢になったということか。

驚きの発見

 林養賢の事件記者のなかに、金閣寺住職村上慈海師に会見した、当時産経新聞京都支局員だった福田定一氏、のちの司馬遼太郎氏の記録が載せられている。 会えたのは、宗教担当だったので以前にも会ったことがあり、会えたという。

   


余談1:

 昨年天橋立を訪れた際、京都の保津峡を前日に見、天橋立の列車の途中、大江山を見、ふっと感じるところがあったが、この作品を読んで大江山が出て来てなおのこと懐かしさがつのった。 読書の作品の中に訪れたことのある場所とか、感心のある場所が出てくると、その作品がより身近なものとなるものである。

 


                               

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