水上 勉著 『雁の寺』

                     
2005-04-25   

(作品は、新潮現代文学45 水上勉 雁の寺 による。)


        
 雁の寺は、第一部 雁の寺 第二部 雁の村 第三部 雁の森 第四部 雁の死  からなるもので、通して若狭の寺大工角蔵とその母親に育てられ、10歳の時に寺の小僧に出されて数奇な運命をたどる捨吉(堀之内慈念)にまつわる物語である。

 

「雁の寺」第一部は昭和36年に発表され、、その年第45回直木賞を受賞している。
 捨吉の素性が徐々に判ってくるが、頭の鉢が飛び出て引っ込んだ白眼部分の大きく、背は四尺二、三寸しかない。 怒り肩の張った上半身だけいびつな怪奇な容貌の持ち主。
 小僧仲間からの虐めもあうが、芯が強く、住職達からは有望視されているが、育ちの性か、どこか鋭利で異常なところを感じさせ、何をしでかすか判らない所がある。

印象に残った所:

 第一部「雁の寺」で、孤峯庵の庭先にある池の鯉をめぐる話題二つに、以後の暗示が印象的である。

一つ: (鳶が)庫裡の屋根瓦の端にある鬼瓦にとまって白砂利を敷いた庭先をへいげいしていた。 鯉が水の上に顔をもたげるとさっとおりてきて鯉を捕る。「鳶はかしこいでの、くちばしでつついて、足ではさんでもちあげよる。 空にあげて落としよる。 鯉が地に落ちて死ぬ。 そいつを巣に持ち帰る。 えらい奴ちゃ」
二つ: とつぜん、慈念は掌を頭の上にふりあげたかと思うと、水面に向かってハッシと何かを投げつけた。 鉢頭がぐらりとゆれて、一点を凝視している。 里子もしゃがんだ。 廊下から池の面を遠眼にみつめた。 瞬間、里子はあっ声を立てそうになった。 灰色の鯉が、背中に竹小刀をつきさされて水を切って泳いでゆくのだ。 ヒシの葉が竹小刀にかきわけられ、水すましがとび散った。 それは尺余もある大きな縞鯉であった。 突きさされた背中から赤い血が出ていた。 血は水面に毛糸をうかべたように線になって走った。
(注 里子は岸本南嶽の囲い女で、南嶽の死後、南嶽と仲の好い孤峯庵の住職慈海に後を託され、慈海の内妻となっていた。)

感じたこと:

雁の寺(全)の中でも、第一部「雁の寺」が秀逸と思える。
しかし、捨吉の本心は自分の母親が誰であるかという一点を追い求め、ついには悲劇の結末を迎えることになる。 自分のルーツを知りたいという願望は、いくら修行をしても消すことが出来ないものなのか。

   


余談1:

 今年の2月 NHKTVクローズアップ現代で「老いを生きる作家 水上勉」を放送していた。 脳梗塞を患い、老人性うつに陥り、それでも最後まで現役の作家活動を続ける姿に、水上作品を読んでみたいと思った。
 水上勉の心のよりどころとした言葉は 『而今(じこん)』。
 禅宗では今を大切にする。 過去は追ってもしかたがない。 未来はわからない。 今この瞬間、この場所を生きるという。

 老いの境地として、老人であるからこそ、老人力華やぐんじゃないですかという水上勉の言葉を紹介する、司会の女性アナウサーと、水上勉と30年間のお付き合いをしてきたという天竜寺僧侶ヘンリーミトワさんとの対話に、自分の老いをどう生きるか考えさせられた。
 

                               

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