幸田露伴著  『五重塔』
                     

                             


                                   2008-02-25


 (作品は、 日本の文学 幸田露伴著「五重塔」 ほるぷ出版による)
  

        
 

明治24年11月から翌年4月にかけて新聞「国会」に連載。
昭和60(1985年)年2月刊行
 

主な登場人物

川越の源太

(女房:お吉)
大工の親分。手腕もすぐれ、人の信用ははるかに十兵衛を越えている。気っぷの良い男意気のある人物。
のっそり十兵衛 源太には義理と大恩のある立場。仕事はのろい、付き合いは悪い、しかし腕はたしか、感応寺の五重塔を建てる話を聞き、雛形を作り建てたいと申し出る。
朗円上人 心の広い慈悲深い人物。五重塔を誰に建てさせるか、名乗り出た二人(源太とのっそり十兵衛)に話し合いで決めるよう言って、ある国の長者の話を聞かせるが・・・。最後の上人の始末は・・・。
清吉 餓鬼の頃から源太親分についている。姉御(お吉)から源太とのっそり十兵衛の様子を聞き、十兵衛にくしと手斧を持っておそい怪我をさせる。清吉の後始末で姉御のやり方に涙する。

読後感:

 きっかけは青木玉(祖父に幸田露伴を持ち、露伴の娘幸田文の長女)のエッセイ「上り坂下り坂」 の中に、祖父の作「五重塔」のことが記されていて、24−5歳の若くしなやかな筆づかい、着想は谷中天王寺の五重塔(昭和32年に焼失)とあり、「五重塔」の面白さがあった。

 昔読んだことがあったと思ったが、ひさしぶりに手にして見、最初の方の文章を読みながら、少し手こずった。すんなりと文章が胸に入ってこない。表面づらだけがすべるようで上っ面だけの感。ちょっとまてよこんな筈ではなかったと思いつつ、其五の大工の十兵衛が感応寺を訪れるあたりからにわかにすっと文章が入ってきだす。その後はなんとも言えずトントンと小気味の良い文調、声を出して読むのが適するところとなる。また、人物像が巧みでその描写も素晴らしい。

 いまで言うと山本一力の「あかね空」に表される気っぷの良さもこんな感じか。

 昔の文学(明治、大正、昭和の前半頃)の時代を経て残る作品はさすがにそれだけのものがあるなあと愉しくなる。

印象に残る表現:

 暴風雨のために準備狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太を招(よ)び玉いて十兵衛と共に塔に上られ、心あって雛僧(こぞう)に持たせられし御筆に墨汁したたか含ませ、我此塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よと宣(のたま)いつつ、江都(こうと)の住人十兵衛之を造り川越源太之を成す、年月日とぞ筆太に記(しる)し了(おわ)られ、満面に笑みを湛(たた)えて振り顧り玉えば、両人とも言葉なく、ただ平伏(ひれふ)して拝みけるが、それより宝塔長(とこしな)えに天に聳(そび)えて西より瞻(み)れば或時飛椽素月(ひえんそげつ)を吐き東より望めば勾蘭(こうらん)夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚(はなし)は活(い)きて遺(のこ)りける。


 


 

余談:
 青木玉のエッセイ「上り坂下り坂」を読んでいると、日常の風景、生活のことが記されているが、なんという柔らかで、優しく包まれるような文体に、こんな風な見方、書き方があるんだと感心させられる。そんなことで幸田文の作品も読んでみたくなった。
背景画は谷中天王寺五重塔(江戸各所図会)より。
かって感応寺という日蓮宗の寺院であったが、元禄12年に天台宗に改宗。天保4年に天王寺と改める。谷中感応寺に建てられた五重塔は1977年に焼失。1791年に再建されたが1957年に放火無理心中事件で焼失。現在は史跡として残る。(HPより)

                                 

戻る