幸田 文著 『 木 』
                          
 


              
2008-03-25





        (作品は、幸田文著 『 木 』 新潮社 による。)

                       

 1992年(平成4年)6月刊行

幸田文:
 1904年(明治37年)9月東京向島生まれ、随筆家、小説家。幸田露伴の次女.娘に青木玉。1928年(昭和3年)、酒屋問屋に嫁ぐも,十年後に離婚し,娘を連れて晩年の父のもとに帰る。露伴没後,父を追憶する文章を続けて発表,たちまち注目されるところとなる。1956年の「流れる」は新潮社文学賞・日本芸術院賞の両賞を得た。
 


読後感:

 このエッセイを知るきっかけは、実は好きなテレビ「新・京都迷宮案内」(橋爪功、野際陽子出演)に大工の男が自分が設計し建てた古くなった町屋が壊されるのを嘆く。その町屋の額に「倒木更新」という文字が書かれており、それが幸田文の「木」というエッセイにあったことを知ったからである。

 早速図書館で借りて読んだ。定年後関心のあるものとして樹木の名前を知るために、デジカメであちこちの樹木を撮りながら1年間掛けて調べた結果、どうにか日常目にする樹木の名前が判るようになるとともに、樹木の良さが少し判るようになった。そんなところでこのエッセイを読んでみて、年齢も関係するかも知れないが、木を愛する幸田文という著者に、非常に共感するところがあり、嬉しくなってしまった。

 特に印象に残っているのが、“藤”の章の子供の心の個所で後掲。
 このエッセイを読み、改めて木に対する見方が少し変わったかなと思うし、樹木に対する愛着がさらに出て来た感じがする。それにしても、幸田文さんってどういう人なんだろうと調べてみたくなった。

こころに残る表現:

 このエッセイには心に残るたくさんのことが含まれているが、ひとつを取り上げるとしたら、以下のことかな・・。

◇「自分が嫁にいって一度そとへ出たが、はなれてまた帰ってきた。女の子(補:幸田文の娘玉子のこと)を連れて帰ったのである。」の下りのある章:

春、植木市だ立ったとき、父が私にガマ口を渡して、娘の好む木でも花でも買っちゃれ、という。娘が欲しいと言い出したのは、藤の鉢植えだった。(子供は、てんから問題にならない高級品を無邪気にほしがった。)もちろん私は買う気などなくて、藤の代わりに赤い草花をどうかとすすめた。子供はそれらの花は、以前にもう買ったことがあるからとしりぞけ、小さい山椒の木を取った。山椒でも子供は無邪気に喜んでいた。

ところが夕方書斎からでてきた父が、みるみる不機嫌になった。藤の選択はまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目を持っていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに、という。

好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だから自分用のガマ口を渡してやった、・・・ねおまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択を無にして、平気でいる。

なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差しにして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花もいとおしむことを教えてやればそれはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の芽を伸ばさないとはかぎらない、そうなればもう、その子が財産をもつたも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない―――さんざんにきめつけられた。

  

余談:
 樹木は一年を通して見て初めてその様子が判る。知らない樹木の名前を知るのに落葉樹か常緑樹であるかが判ると大いに判別に役立つことを経験した。目立たないが木の花も注意してみると美しい。そんなこともこのエッセイに出ていて嬉しくなる。
 
  背景画は、屋久島縄文杉のフォトを利用。