こころに残る表現:
このエッセイには心に残るたくさんのことが含まれているが、ひとつを取り上げるとしたら、以下のことかな・・。
◇「自分が嫁にいって一度そとへ出たが、はなれてまた帰ってきた。女の子(補:幸田文の娘玉子のこと)を連れて帰ったのである。」の下りのある章:
春、植木市だ立ったとき、父が私にガマ口を渡して、娘の好む木でも花でも買っちゃれ、という。娘が欲しいと言い出したのは、藤の鉢植えだった。(子供は、てんから問題にならない高級品を無邪気にほしがった。)もちろん私は買う気などなくて、藤の代わりに赤い草花をどうかとすすめた。子供はそれらの花は、以前にもう買ったことがあるからとしりぞけ、小さい山椒の木を取った。山椒でも子供は無邪気に喜んでいた。
ところが夕方書斎からでてきた父が、みるみる不機嫌になった。藤の選択はまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目を持っていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに、という。
好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だから自分用のガマ口を渡してやった、・・・ねおまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択を無にして、平気でいる。
なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差しにして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花もいとおしむことを教えてやればそれはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の芽を伸ばさないとはかぎらない、そうなればもう、その子が財産をもつたも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない―――さんざんにきめつけられた。
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