幸田 文著 『父 その死 』
                          
 



              
2008-05-25



        (作品は、幸田文著 『 父 その死 』 新潮社 による。)

                       

2004年(平成16年)8月刊行
「父−その死−」は昭和24年12月中央公論社より、「こんなこと」は昭和25年8月創元社より刊行。

幸田文:
 1904年(明治37年)9月東京向島生まれ、随筆家、小説家。幸田露伴の次女.娘に青木玉。1928年(昭和3年)、酒屋問屋に嫁ぐも,十年後に離婚し,娘を連れて晩年の父のもとに帰る。露伴没後,父を追憶する文章を続けて発表,たちまち注目されるところとなる。1956年の「流れる」は新潮社文学賞・日本芸術院賞の両賞を得た。
 

読後感:

 あとがきに父の終わりの記録というものは留めておかなくてはなるまいと、いつのころからか思いこんでいたとある。私や娘はめいめいの眼で見ていれば、もうそれでいいと思っていた。その後父が死んでいくということを非常によく知りたがっているのを見聞きするにつけ、自然私も誘われたかたちで、しかしまったく別な子としての情から、父はいかに終わるか、しっかり見とどけたく思うようになり、どうか徐々に死んでもらいたいと願ったとも。

 先に見た青木玉(幸田文の娘)のエッセイから見られた母親のこと、祖父(幸田露伴)に対する見る眼に対し、母親の眼から見た父のことを知ると、やはり世代のギャップというか、肉親の近親間の骨肉の感情というのが、極めて厳しく去来している。しかし、ある時から父の慈悲、やさしさに触れ、それが瓦解していく様子に肉親の姿を見る。それを以下に記す。

 父は姉と弟をたいそう可愛がり、真ん中の文子に対しては冷たかったという、(父が延子叔母さんから「お父さんは文ちゃんをかわゆくないやつとおっしゃったよ。かわいかった子はみんな亡くなっちゃって文ちゃん一人残って、泣いたりおこったりしながら、それでもお父さんのお世話をしているだろ。それを思うとおばさんは蔭ながら旗を掉(ふっ)てるよ。」と叔母に応援されたことは、私を忍耐させ慰めた。

 疎(うと)くされたことは悲しく、悲しみは恨みに成長し、年とともにいよいよ頑な(かたくな)であった。私はほんとに父に愛されたかった。そのゆえに恨みは深く長かった。
 それが七月の二十三日、父の誕生祝い膳での、小さな鯛しか準備できなかったともしい膳を「せっかくだがとても食べられない」といいつつ、蒲団の上へ載せろと指さし、じっと眺めていて、しずかに仰向きになると目を閉じたままにこっと笑った。・・・父の眼は涙があったんじゃないかと思われるほど優しかった。そういう優しい眼はめつたに見せないけれど、父の特徴ある眼つきだった。・・・「うむ。飯はあるんだろう。」「赤のご飯?」「ああ。」「ええ、どっさり炊いたから。」「まだだろ、早くおあがり」・・・
 おもいがけない小さい鯛が波の間から、ぴかっとお膳へのっかかった。


こころに残る表現:

◇ 喪主

ずっと以前葬儀について父と話したこと

お前は私の葬式がどういうようになると思っているかと訊いた。
「おまえがきょう見て来たものとは凡そ違うものなのさ。溢れるほどに人が来るなんて思っていれば見当違いだ」と言って笑い、「・・・・ まあ住んでいるところの近所並みに極あっさりとやっといてくれりゃそれでいいよ。おまえには気の毒だがうちは貧乏だ、私の弔いのためにおまえが大骨折って金を集めたり、気を遣ったりしてしてくれることはいらない。傷(いた)むなと云ったっておまえは子だから傷むにきまっている、それで沢山なんだよ。」なごやかに柔らかく話す時の父の調子は、まったくいいものであった。よその父親は如何に娘に話すか知らないが、こういう時の父は天下一品の親父だと思っている。どこのおとうさんととりかえるのもいやだと思う。だから叱られて泣く時にはたまらないが、思い出して我慢するのである。

さらに訊く
「お葬式は死んだ人の格でするの、それとも残った人の柄(がら)でするの。」「そりゃ一体婚礼でも葬式でも人の集まることには、自然のなりゆきというものを考えに入れなくてはならないから、きめておくというわけにも行くまい。そんなことは、なあに気にすることは無いよ、ぶつかった時をよく見ればすぐわかるさ。」これは少し心細いことだったが押した。「それじ ゃその場にしたがって文子のできるだけでいいの。」「そうさ、なんでもおまえがあくせくし ないでやれるところが、ちょうどいいところだ。」・・・・

あとに残る女所帯を庇う(かばう)親心は厚く、ありがたいと思った。


  

余談:
 青木玉のエッセイ「底のない袋」(講談社)の中に ”露伴の春秋”の項があり、文筆家となっていく時代の状況が記されている。二十数頁のものだが、露伴の幼少の頃から旅立つまでのことが簡潔に、時代の移り変わり、家族のことなど露伴のひととなりが伝わってくる。
 
  背景画は、幸田露伴の向島蝸牛庵(犬山市、明治村に移築保存)。幸田文はこの家で生まれる。