読後感:
あとがきに父の終わりの記録というものは留めておかなくてはなるまいと、いつのころからか思いこんでいたとある。私や娘はめいめいの眼で見ていれば、もうそれでいいと思っていた。その後父が死んでいくということを非常によく知りたがっているのを見聞きするにつけ、自然私も誘われたかたちで、しかしまったく別な子としての情から、父はいかに終わるか、しっかり見とどけたく思うようになり、どうか徐々に死んでもらいたいと願ったとも。
先に見た青木玉(幸田文の娘)のエッセイから見られた母親のこと、祖父(幸田露伴)に対する見る眼に対し、母親の眼から見た父のことを知ると、やはり世代のギャップというか、肉親の近親間の骨肉の感情というのが、極めて厳しく去来している。しかし、ある時から父の慈悲、やさしさに触れ、それが瓦解していく様子に肉親の姿を見る。それを以下に記す。
父は姉と弟をたいそう可愛がり、真ん中の文子に対しては冷たかったという、(父が延子叔母さんから「お父さんは文ちゃんをかわゆくないやつとおっしゃったよ。かわいかった子はみんな亡くなっちゃって文ちゃん一人残って、泣いたりおこったりしながら、それでもお父さんのお世話をしているだろ。それを思うとおばさんは蔭ながら旗を掉(ふっ)てるよ。」と叔母に応援されたことは、私を忍耐させ慰めた。
疎(うと)くされたことは悲しく、悲しみは恨みに成長し、年とともにいよいよ頑な(かたくな)であった。私はほんとに父に愛されたかった。そのゆえに恨みは深く長かった。
それが七月の二十三日、父の誕生祝い膳での、小さな鯛しか準備できなかったともしい膳を「せっかくだがとても食べられない」といいつつ、蒲団の上へ載せろと指さし、じっと眺めていて、しずかに仰向きになると目を閉じたままにこっと笑った。・・・父の眼は涙があったんじゃないかと思われるほど優しかった。そういう優しい眼はめつたに見せないけれど、父の特徴ある眼つきだった。・・・「うむ。飯はあるんだろう。」「赤のご飯?」「ああ。」「ええ、どっさり炊いたから。」「まだだろ、早くおあがり」・・・
おもいがけない小さい鯛が波の間から、ぴかっとお膳へのっかかった。
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