北村薫著  『秋の花』、
                     『六の宮の姫君』、
                        『朝霧』


 

                 2010-06-25



(作品は、北村薫著 『秋の花』、『六の宮の姫君』、『朝霧』 東京創元社による。)

             
      

 『秋の花』

 1991年2月刊行。

『六の宮の姫君』

 1992年4月刊行。

『朝霧』

初出 
「山眠る」   「オール読物」 1995年4月号
「走り来るもの」「オール読物」 1996年7月号
「朝霧」    「オール読物」 1997年11月号
 本書 1998年4月刊行。

北村薫:
 1949年12月、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業、89年「空飛ぶ少年」でデビュー。
 91年「夜の蝉」で第44回日本推理作家協会賞を受賞。


 物語の概要:
 
 北村薫作品中円紫シリーズの第3弾から第5弾にあたる。ベッキーさんシリーズとはまた別の味のあるシリーズである。三人の仲間たちの成長物語でもある。

 主な登場人物: 

(21歳) 三人(私、江美、正子)は大学入学以来の仲間。
庄司江美 学生の身分のまま結婚、お相手は今年卒業した同じサークルの先輩。
高岡正子(しょうこ) 男っぽい顔立ちの女の子。
春風亭円紫師匠 同じ大学の卒業生が縁で大学の雑誌「卒業生と語る」にひょんなことから在校生代表として私がお相手に。私を悩ませる難問に答えをしてくれる。
上記は共通登場人物
「秋の花」
津田真理子
(高校3年生)
和泉といつも一緒のしっかりものの芯の強い生徒。私は二人(津田と和泉)にとって小中高と先輩に当たる。文化祭の前夜屋上から転落死する。
和泉利恵 明るいが頼りないところがある。津田の事件以後、すっかり魂が抜けたようになる。
朝井先生 5年前に私を生徒会に引き込んだ先生。
飯島先生 津田と和泉の担任の先生。
「朝霧」
みさき書房の
めんめん

・社長
・天城さん
・飯山さん
・榊原さん


読後感 

 「秋の花」:
 
 女子高生のいつも二人一緒のひとり津田恵理子が文化祭の前夜屋上から転落死し、もうひとりの和泉理恵がその事件の後すっかりふさぎこみ、学校にも出てこれなくなる。文化祭は中止。そんなとき二人とは小中高の4年先輩でもある私にどういう意味か分からないが教科書のコピーが郵便受けに投げ込まれていたりと、全編を通じ事件の匂いが漂っている。今回は<死>といういままでにない深刻なテーマが扱われている。
 
 不安定な和泉の行動にも心配がつきまとうがなんといっても事件が迷走状態になり、最後に来て円紫師匠の登場を願うことになる。この円紫師匠の即決のお手並みも見事だが、その後の始末の鮮やかさ、そしてそこに至る過程の逼迫感、描写の巧みさに一気に引き込まれてしまう。うーんとうなるような盛り上がり方と言うしかない。
 さすがに北村薫という作家の腕の見せ所。ますますファンになってしまう。 また話題の中で文学作品があちこちに出てくるのはいつものこと、もっと分かるようになりたいものとまた思ってしまう。

「六の宮の姫君」:

 この作品は今までの作品の内容と比べていささか文学作品の謎解きの様相を呈したもので、芥川の人物分析、作品の中に表現された分の推敲そして友として相容れない主張をも認め合いつつ菊池寛とのことにずいぶんと紙面を割いている。
 
 それというのも田崎信先生が紅顔の美少年の頃芥川龍之介(当時三十歳頃)に一度あったときの話。「六の宮の姫君」のことに触れた時芥川さんが《あれは玉突きだね。・・・いや、というよりはキャッチボールだ》と言った。その言葉の秘密を探らんとして作品が生まれた状況を調査し明らかにすることからこの作品が成り立っているから。

 もちろん我が友高岡正子こと正ちゃんとの掛け合い漫才というかユーモラスなやりとりも健在ではあるが、この作品に関しては何かしら場違いの観のものかと思われた。しかし芥川龍之介や菊池寛、そのほか上がっている著名な作家たちのことに関心、興味のある自分としては別の意味で非常に有意義な作品ではあった。こういう背景、人物のことを知ってそれらの作家の作品を読んでみたいと思った。さて「夜の蝉」の印象が深かったのでこの作品についての評価はどんなふうに読者にとられるのだろうか?

「朝霧」:

 この作品はシリーズでいうと従来のように幾つかの短編が集められてはいるが、ほぼ継続した造りになっている。ただ中味としては「六の宮の姫君」にも似て今度は俳句とか歌舞伎、落語の噺の話題が色濃い。そして感じるのが小説を読んでいるというよりは出版社に就職をして仕事のやり方を教えられているような錯覚にさえなってしまう。
 
 背景からして卒業をしてしまったので仲良し三人組も会うことも少なくなり、一応高岡正子ちゃんとの接触、九州に行ってしまった江美ちゃんのことも少々程度。

 これも時間経過のなせるせいか。
 
 円紫さんとの謎解きもごくさらっと、ただ企画として落語の落ちとか噺家による表現の違いが語られて落語の味わい方に触れられているのは参考になった。でも今はあまり落語も聴かなくなってしまったなあと感慨深いものがある。


印象に残る言葉

◇「朝霧」の「山眠る」で文壇の長老田崎先生が私を諭す言葉:

(夏目成美−ー小林一茶の世話をした人−ーの句 “寂しさにつけて飯ふ宵の秋” と高井几董−−蕪村の高弟−−の句 “かなしさに魚喰ふ秋のゆふべ哉” のどちらがいいかの問いに対し私が「高井几董が好き」と答え、「あふれるばかりの才能があった人、それなのに蕪村が亡くなるとこれといった句も作れなくなり、最後にはお酒の席で急死をしてしまう。 暗いもの危ういものを持っていた人のように見える」 と言ったのに対し

「いやだなあ、僕は。―――いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。―――それから、これはいかにも爺さんらしいいい方かもしれないが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」

  

余談1:

“耳食”のはなしにうぅーん
(小学四五年の頃)読書感想文の宿題をやっている私に向かって龍麿(タツマロ)叔父さんが心得として説いてくれた言葉:
 即ち―――本でも絵でも音楽でも、他人に、これはいい、といわれて、それにとらわれてはいけない。 それは評判を聞いて料理を食べ、闇雲においしいというようなもの、つまりは耳で食べているようなものだ。
(叔父さん、折口信夫という偉い偉い先生が書いている本から教わったもの)

余談2:

 黒澤明監督で有名な芥川龍之介作の「羅生門」、改めて読んでみる。作品の短編さに驚く。そして本作品に期されている結末の表現が複数あることを知り驚嘆。今回読んだほるぷ出版のものは「下人は、既に、雨を冒(おか)して、京都の町へ強盗を働きに急いでいた」となっていた。
(今出ている版だと“下人の行方は、だれも知らない”と記されている。)こういう風に作品について事情を知って読んでいけたらまたおもしろみは深いものになることだろう。


余談3:

 噺家の演者が落ちのところでお客さんの様子を見ながら斬ることもあるのに対し、“本の場合には、読者の方がそれぞれ演者になるわけでしょう。 読者が本を深いものにする。 だから本を読むことは楽しい” の口上にガッテン。

背景画は、文庫本の「秋の花」の表紙を利用。

                    

                          

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