岸恵子著  『ベラルーシの林檎』
 


                   2006-11-25
(作品は、岸恵子 『ベラルーシの林檎』 朝日新聞社による。)

  

1993.11刊行。

読後感

 プロローグに書かれている、「昭和20年五月二十九日、横浜一斉空襲の朝のこと、私は十二才だった。・・・」頃の描写を読んで、この人は小説家じゃないかと思った。案の定、「廃墟から六年、私は小説家にならずに女優となっていた」と記されていた。
 また、大岡信のエッセイ「しのび草」には、”世にも希な物書きが出現した。とび抜けて独特な経験をしてきた。とびきり芸術的感性に恵まれ、文章を書くのも好きなら、その文章そのものに一種癇癖(かんぺき)の強い悍馬(かんば)のような魅力を備えた、端倪(たんげい)すべらざる一人の文筆家がそこに立っている。”

 このエッセイを読んでいると、、岸恵子という人間が人生をすごく素直に受けとめ、感じ、それを飾らずにそのまま読者に伝えている印象を強くした。普通の人の受け止め方で、誇張しないで、ごく自然体である。引き付けるものを持った作品である。ヨーロッパの歴史をごく身近に感じさせられた。
 
 お父さんの生き方は、自分もそうありたいと願っていることと同じであることも心に残った。

 さらに岡本信のエッセイに、”「ベラルーシの林檎」の読者は、この独特な自伝エツセイの基調に、ある日突然自分のもとを去っていき、やがてはこの世からも去っていったイヴ・シャンピへの懐かしさの限りを尽くした呼びかけの調べがひそかにたえず鳴っているのを聞き取ることができるはずである。”ということも念頭においてとある。
印象に残る場面:

二つの別れ より

お父さんにまつわる話:

 十代の小娘(岸恵子のこと)が、「スターぶった生活」をするなんてとんでもないと、思っていたに違いない。夕方からひどい豪雨になった。運転手つき、付き人つきの身分になっていた私は、傘を持たずに出た父を車で迎えにいってもらった。 車は空で帰ってきた。
 父は叩きつけるような吹き降りの中を、ずぶ濡れになって帰ってきた。
「車をありがとう。 乗らずにかえして悪かった。恵子には恵子の生活があり、僕には僕の生き方がある」と父は言った。

 すでに不治の病に冒されていた父が、「恵子の住むパリという町をみてみよう。 ついでに世界一周というのもやってみようか」といってくれ、親子三人連れたって羽田を発った。
 そして孫娘との共同生活を両親は手放しで喜んでいた。あれほど幸せそうな父の顔をみたことはなかった。 クリスマスのイリュミネーションで飾られたパリが、新年のお祭り気分にひきつがれ、そのほとぼりが冷めたある日、父は突然倒れたのだった。

 やがて小康状態がおとずれ、田舎の家に移った。父はひどく憔悴はしていたが、娘にせがまれると、網を持って珍しい蝶々を追いかけたり、庭の池で真鯉を釣った。夏が終わりに近づき、父の発作が再発すると、夫は何もかも放り出してパリからその都度駆けつけて治療してくれた。 そんな時、父は夫に深々と頭を下げた。

 入院することになり、娘とともに十ヶ月近く住みなじんだ明るくてほかほかと暖かい部屋をひとわたり見渡して、低い小さな声でつぶやいた。「じゃあ、さようなら、家よ。さようなら」
 ほんとうは「日本よさようなら」と言いたかったのではなかったのだろうか。父の中で「日本」はこのときどこにいたのだろう。 父は苦しみ抜いた発作の最中も、口に合わない病院でのフランス料理を飲み込むときも、一度として、日本へ帰りたい、とは言わなかった。 どんなにか、横浜の家の紅葉したもみじが見たかったであろうに・・・。 私の見た父には、それらを超越した、人生に対するすずやかな了解の気配がにじんでいた。

 人はいろいろな死を生きる。
 成功の絶頂にいて人生はこれから、というときに黙って猟銃の引き金を引いた若い一人のユダヤ人の死と、細々とではあっても運命に身をゆだね自分らしく充実した生と死をおらかに生きた父は対極にいるようで、どこか似通っている気がしなくもない。

  

余談:
岸恵子のエッセイを読んでみて、どうしてこんなに読み手の気持ちにすんなり入ってくるのかなあ。作家ってみんなそんな力を備えているんだなあと思う。
背景画は、「Flying Kong's Homepage」のパリの画像を使用。

                    

                          

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