川端康成著  『雪国』
                     

                             


                                   2007-09-25


 (作品は、ほるぷ出版による)
  

       
 

左:ほるぷ出版「雪国」、右:川端康成全集第24巻「雪国」(プレオリジナル)

雪国:

昭和46年(1971)5月11日より昭和47(1972)4月10日までの朝日新聞朝刊に三浦綾子「氷点」に続く新聞小説として333回に渡って連載。
昭和59年(19)8月刊

◇あとがきより
「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。三十代後半の作品である。
息を続けて書いたのではなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。そのための不統一、不調和はいくらか見える。

 はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短編として書くつもり、その短編一つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかったために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加わるにつれて、余情が後日に残り、初めのつもりとはちがったものになったのである。私にはこくな風にして出来た作品が少なくない。

 

主な登場人物

島村  親譲りの財産で無為徒食の男。東京に妻子あり。ここ三年で一年に一度位の割で駒子のいる山村の温泉宿に出かけてくる。清潔そうな駒子に惹かれているが、きらきら目を光らせる葉子にも魅力を感じ惹かれる。
駒子

 山村の若くて美しい芸者。行男の療養費を稼ぐため、東京に身売りしたが、。師匠の心の中では、行男のいいなずけと思われているが。。。。
 島村を好いていて、温泉宿でもその中を知られるように。
なぜか葉子とは反発しあっている。

葉子  村の娘、一風変わった子。行男を看病し、子供達の面倒見も良い。島村に対しては、「駒ちゃんは憎い。」といい、「駒ちゃんは私が気ちがいになる」という。一方で、「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」という。
行男  駒子の踊りの師匠の息子。東京で夜学に通い、腸結核で故郷に帰る。小説の冒頭での病人は彼。今年26歳。

読後感:

 最初図書館から借りたのは、川端康成全集第二十四巻、雪国(プレオリジナル)とあった。
 中身はというと、夕景色の鏡、白い朝の鏡、物語と続き、いっこうにあの有名な最初のフレーズ「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が出てこない。少し進んだところに、「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった。」とある。

 おかしいなと思い、「雪国」(プケオリジナル)とは別立てで、「雪国抄」とする離れた所を開いてみると、先の同じフレーズがあった。でもなんかうる覚えのイメージと違う感じ。
改めて「雪国」は第10巻にあることが判り、入手しそちらに乗り換えた。

 あとがきを見て、そういうことだつたのかと改めて「雪国」の誕生経過を知った。作品の誕生には色んな背景があったのかと思い知らされた。
 そういえば、宮本輝の直木賞作品の誕生にも、随分書き直し、修正が繰り返されて始めて世に出る風になったようだし、書き上げた作品でもふと後で修正したくなるものも幾らでもあるのだろうと思う。

 当初雑誌に出版されたものよりも、現在単行本として発行されているものの方が、スッキリと整理されている感じで情緒を感じる。そして全集の活字の行間の狭さが、文の情感・余情をそぎ落としている感が拭えなかった。
でもプレオリジナルも素直な気持ちで、内容のみに集中して読んでいると、素朴さが伝わってきて結構好きである。今回は改めて読んでみて新しい発見をした。


印象に残る表現:

 この作品は最初のフレーズもそうだが、表現が堪らなく素敵で、なんども読み返してみたい小説である。その幾つかを掲げる。


◇ 島村が東京に帰るのを駒子が駅に見送りに来ていた時、葉子が(師匠の息子)行男の異変を知らせに来て、戻るように言った時:

「君が東京へ売られていく時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終わりの頁に、君を書きに行くんだ。」
「いや、人の死ぬの見るなんか。」


◇ 雪の中の火事で葉子が二階から落ちるクライマツクスで:

人垣が口々に声をあげて崩れだし、どっと二人を取りかこんだ。
「どいて頂戴。」
駒子の叫びが島村に聞こえた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
そういう声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあっと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。


 

余談:
 
ずっと読み継がれた作品というものには、それだけの値打ちがあるものだ。この「雪国」の作品を改めて読んでみて、その表現の美しさに惚れ惚れする。

                                 

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