曾野綾子著 『神の汚れた手』
                     
2004-03-20



 三浦半島に関わりのある文学作品を探していたとき、図書館の郷土資料のコーナーで手にした作品が、曾野綾子の『神の汚れた手』(朝日新聞社発行上、下)であった。
 
 はじめ、作品の中身は全然知らず、読み出してみて、これは重いテーマの作品かなととまどった。
 丁度そのころ、娘夫婦に赤ちゃんが誕生し、出産のシーンを体験したばかり。 今までの自分なら、この手の、生まれるさいの情景を事細かに記述したものなど、とても読み切れない体質(?)であった。

 親なら、赤ちゃんが生まれるときには、母子共無事で、しかも、五体満足な子であって欲しいことだけを願ったものだった。 それが満たされた後だったので、この作品は、なんとも引き込まれて読み耽ってしまった。 そして読みながら、人の運命の過酷さ、命の尊厳とは何か、勇気とは?、正義とは?、日常の何気ない幸せといった、色々なことを想い起こさせてくれた。 まさにこの作品には、魂を揺さぶるような事件が次々と展開されている。 是非一度手にして欲しい作品である。
主な登場人物:

 主人公は野辺地貞春 40才、これといった信仰心を持たないごく普通の産婦人科医院長。 住まいは三浦半島、黒崎の鼻に歩いて30分程のところ。 住居は医院とは別棟のところに、妻真弓、子供の香苗と住む。 妻は外泊しがちで、むしろ妻が居ない方が休まると感じている。

 仲の良い友人に、筧搖子(かけいようこ)がいる。 未亡人。 貞春の死んだ姉、永見子の高校時代の友人。 黒崎の鼻(馬の背)に住む。

 それに、筧搖子に紹介されて仲良くなった、宗近神父(久里浜のカトリック教会の主任神父)がいる。
 色々な事件が起こった際、気晴らしというか、相談相手として、筧搖子の家で3人が集まり、意見をかわす仲である。

  

印象に残った部分:

 作品の最後の方の部分。 産みたくもない第二子を、親の看病をしなければならない状態で産むことになった産婦に、生まれたのは、口蓋裂のほか、眼球のない子であった。 産婦は、経済的にも労力的にも破産しかかっていて、早期の退院を望み、止めることも出来ず、小児科に行くように言うことしか出来ず、おそらく小児科に行かないであろうとは判りつつ、そのフォローをしなかった自分。

 老人の看病にかまけて子供の異変に気づかず、おかしいと気が付いて貞春の病院に再び担ぎ込んだときは、心音は聞こえなかった。 事情を聞きながら、望まれない赤ん坊の死亡診断書を書く貞春。

 「貞春はこうなることが判りながら産婦と子供を帰した。 親たちは生かそうとしながら、その死を願った。 夫妻はあの子に、生きることと死ぬことと両方を望んだ。 貞春も同じであった。 生きるようにし向けることが任務と思いつつ、子供が早めに息を引き取ることを望むのが、愛だとしか思えなかった。」

 黒崎の鼻の、岡の切岸に立ち、一人で荒々しい風に吹きさらされるところでこの小説は終わる。 読んでいる内に、とめどなく涙があふれてきた。

 そして近くの里山の谷戸を、周囲の野菜畑や、黄色に色づいて、春の訪れを知らせる菜の花畑を見つめながら歩くとき、今の自分の幸せに、感謝の気持ちがいっぱいになった。

 
 貞春が立ったと思われる、黒崎の鼻の、岡の切岸。


 

作家曾野綾子について:
 
 曾野綾子はクリスチャン(カトリック)として著名な存在である。 ただ信者と言うだけでなく、「聖書に関するエッセイ」「聖者に関する評伝、紀行文」「聖書を題材とした子供向けの絵本」「信仰をテーマとした小説」など自身の著作活動の少なからぬ部分が信仰と深く関わっている。

 なお、この作品は昭和54年、白内障での手術の前に完結した最後の大作であり、当時失明の危機にあった作者にとっては、絶筆となる可能性を大いに認知した上での著作であったと思われる。 (曾野綾子で検索した人様のHPより引用)
余談:
 
 背景画に使った画像は、黒崎原の広大な野菜畑の中に立つ家。 屋根の鮮やかなオレンジ色が、空の青さに映え、周りの雰囲気にぴったりの風情を醸し出していた。(平成16年2月撮影)

 

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