田光代著 『みどりの月』
 





             2014-09-25


(作品は、角田光代著 『みどりの月』  集英社による。)

             

 初出誌 みどりの月    1995年6月号
     かかとのしたの空 1998年7月号
 本書 1998年(平成10年)11月刊行

 角田光代:

 1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文芸科卒業。90年「幸福な遊戯」で第9回海燕新人文学賞、96年「まどろむ夜のUFO」で第18回野間文芸新人賞、98年「ぼくはきみのおにいさん」で第13回坪田譲治文芸賞を受賞。時代の感覚を描いて今もっとも注目されている。ほかに「ピンク・バス」「カップリング・ノー・チューニング」「草の巣」がある。

物語の概略:

子供の頃からぼっとしてしまうスイッチがあった南。小学校にも中学にも高校にも家庭にも、おさまるべき枠が用意されているのに、いつもはみ出してしまう南。恋人キタザワの一緒に暮らそうとの言葉に、彼のマンションに引っ越しをする。とてつもなく散らかった部屋には、マリコとサトシという同居人が…。この共同生活の中に南の居場所はあるのか。

主な登場人物:

「みどりの月」
沢田南(私) キタザワから一緒に暮らそうと。そこは一つの家に4人が同居することに。マリコの母親が尋ねてくることに。私はサトシの恋人役に。
キタザワ

「ハッピーデイズ」というファミレスの副店長。
南に一緒に暮らそうと誘い、リビングを挟んでもう一つの部屋に住む。

キタザワマリコ

キタザワの部屋の同居人。サルサワサトシと同じ部屋に住む。
派遣社員で会社勤め。実はキタザワの先妻、戸籍はそのままになっている。整った顔立ち。

サルサワサトシ ゲームソフト会社に勤めているのか月に何日かは出掛けるが、毎日部屋でゲームに明け暮れている。

「かかとのしたの空」
今ある物を売り、ゆずり、捨てて長期の新婚旅行に出る。まずはバンコク行き。
キヨハル 5年近く勤めていた住宅会社を突然辞め、家事に、それにも飽き、私の「旅行に行って気がすむまで歩き回ってみよう」の言葉に張り切る。
あざやかなオレンジ色のスカートをした妖怪?

旅先で私たちにまとわりつく謎の女。
いつかどこかで私たちを利用するつもりなのだと私は信じていた。

読後感

「みどりの月」

 奇妙な四人のマンションでの暮らし、“全部やりたいひとがやる”とのルールで部屋は汚れっぱなし、せっかく二人の暮らしが始められると思ったのに自分の居場所がない。その理由はキタザワとマリコは結婚していて、離婚しても良いがマンションの頭金は両方の両親が立て替えている。マリコに言わせると「神様の前で離婚しないと約束しちゃったので破るのが怖い」と。

 マリコの薬を飲んでラリッた状態の不可解な行動、サトシの一日中部屋にこもってゲームをやっている姿。最近人の顔が現れて仕事が出来ないと騒ぐキタザワ。散らかし放題の部屋。
 そんな時マリコのお母さんが来るというので芝居をすることになる。中年女のおばさんの母親の話が出てきてなんとなくこの作品の素性が現れてきた感じ。
 そんな中から彼らの行動は私の理解を超える方向に向かおうとしている。それに私の考えも同調して行こうと・・・。“リセットボタン”のことが意味深。

「かかとのしたの空」

 予定も行き先も決めない旅に出た私と夫のキヨハルの様子から、どんな世界があるのだろうかと引き込まれてしまう。それは一度は夢に見る憧れでもある。でも現実にそのような行動を取ることは自分にはまずない。
 
 そんな中、どんなことが起こるかが垣間見られる様子にそうなんだろうと納得してしまう。例えば小さな島でのバンガロー生活。(“印象に残る描写”参照)1週間とか1ヶ月滞在して再び戻っていく際は、要らなくなった物を譲ったり、捨てたり、残る人はどんどん物が溜まっていって、自分の番になると同じようにする。
 こんな感情がわき上がってくるとは実際経験してみないと描けないのではなかろうか。そう言う意味でもうけものの読み物であった。
 さて興味を覚えるのはこんな風来旅の果てにある物、感じることはどんなことなのか?ラストに胸が高まっていく。

 印象に残る場面

 計画のない旅に出てたどり着いた島でのバンガローでの生活の中で感じる様子:

「たとえばバンガローまで続く道を縁取る椰子の木々、たとえようもなく美しい海水とその中の入り組んだ光景、毎日同じ時刻に海に沈む巨大な太陽、それらは私と、あるいは私とキヨハルと、私たちの持つ事情と、けっして混じり合おうとせず遠くにある。遠くにありながらつねに、こちが何ものかと問うことなく認めている。ここに住まう人々もまるで島の光景と同化したように、私たちを扱う。彼らは私たちに何も問わない。どこからきたのか、いつまでいるのか、どこへいくのか、今まで何をしていたのか、いっさい問うことをしない。だから私たちは私たち自身のままでいなければならない。それは私たちをどこか落ち着かなくさせる。部屋をもので満たし、その狭い空間に嗅ぎ慣れたにおいを充満させていなければ、落ち着くことができないのだ」

  
余談:

 表題の「みどりの月」とはいったいなんだろう?と思っていたら作品の中に出てきた。
 それは部屋のなかで窓に映る信号機のひかり。
「かかとのしたの空」でもラスト近く表題を思わせる描写が浮かび上がってくる。

 ところで「シンガポールの清潔な町にどうしても親しみを覚えることができなかった。それは、本当のことを何一つしゃべらないキヨハルとどこか似ていた」と表現され、タイにしろ、マレーシアにしろ行った先での風土や人の生活ぶりそのものが自分を開放させる居場所を与えてくれていること、裸足で土を踏みそこから感じられるものがふっと自然に帰らせてくれる感触を得たんだろうと思う。そんな魅力を得られる旅行に出てみたいと思うのだが。

背景画は、「かかとのしたの空」に出てくるタイ バンガル島の海岸風景。フォトを見て作品の雰囲気が実感できるよう。

                    

                          

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